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日本人の美意識の1つ「わびさび」
 
わびは、不完全なもの、未完成な自然の中にあるありのままの美をさします。
そんな「わび」を極めた茶の道が、千利休が確立した「わび茶」です。
 
織田信長・豊臣秀吉の茶頭となり、政治にも深く関わったとされる千利休。
 
しかし、最期は、商人であり文化人でありながら、秀吉の命による壮絶な「切腹」でした。
 
千利休の切腹の真の理由は、未だに謎のままです。
 
今回は、そのあたりを中心に、千利休についてお話しします。

 

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堺の商人・千利休

 

 
千利休は、堺の商人の長男・宗易として生まれました。
 
当時、商家の跡取りは、教養や品格を身につける必要があったので、18歳のころ、武野紹鴎(じょうおう)という茶人に師事することになります。
 
この紹鴎の師の村田珠光(じゅこう)は、「わび茶」の創始者といわれる人です。彼は、当時の中国産の器を使った豪華な「茶会」を否定し、儀式的な形を減らして、茶と向き合う者の「精神」を重視しました。
 
 
【関連記事】
とんちで有名な一休さんは実在の禅僧!わび茶の創始者・村田珠光はその弟子
 
 
紹鴎は珠光が説いた「不足の美」(不完全だからこそ美しい)をより深め、高価な茶碗ではなく、日常使っている雑器を茶会に用いて、茶の湯の簡素化に努めました。
 
利休は、それをさらに進め、「わび」の対象を茶室の構造やお点前の作法など、茶会全体の様式にまで広げたのです。
 
利休は、茶碗などの茶道具は日本製を用い、掛物には禅の精神を反映させた水墨画を飾りました。
 
そして、極限まで無駄を省いた美しさを追求し、「わび茶」を大成させたのでした。

 

信長・秀吉の茶の師匠に

 

 
天下布武を目指す織田信長は、「茶の湯」をその統治に利用しました。
 
かれは、許可を与えた家臣にのみ茶会を開くことを許します。
当時、茶会を開くというのは特別なステータスで、優れた茶道具は一城よりも価値があるとされていました。
 
そして、信長は、自由都市の堺に目をつけて、そこを直轄市にし、鉄砲の供給地にしました。
 
彼は通商の自由に力を注いでいたので、堺ともっと親密な関係になるべく、政財界の中心で茶人でもあった3人を、茶の師匠(茶頭)として取り上げます。
 
それが、今井宗久、津田宗及、そして千利休でした。
 
当時の信長の家臣の最高の栄誉は、信長から茶会の許しを得ることだったといわれます。
 
ですから、茶道の師匠だった千利休は、当然信長の家臣たちに一目置かれるようになりました。
 
「本能寺の変」後、信長の後継者となった秀吉も、同じく茶の湯に熱心でした。
秀吉の家臣など、当時の茶道好きの武将の多くが、利休に弟子入りしています。

 

利休・切腹す

 

 
秀吉が、北条氏を破り天下を統一したころから、2人の関係に暗雲がたちこめます。いろいろな面で、ぶつかることが多くなりました。
 
天下人となった秀吉が、文化人として君臨する千利休を疎ましく思った、また、千利休が秀吉を心の底では軽蔑していたなど、いろんな憶測を呼んでいます。
 
そのあたりの事情は、もはや藪の中なのですが、この頃から、秀吉の痴呆か?と思われるような晩年の愚策が目立ってきます。
 
私は、老人になってもうろくしたというよりは、弟・秀長の死が、すごく大きかったのではないかと思っています。
 
もともと秀吉は、城攻めのときなどに、かなりの残忍性を見せています。
それを、行き過ぎないように、副将として常に上手にコントロールしていたのが、秀長でした。
 
秀長は、かなり温厚でバランス感覚のあった人物だと考えられます。
この秀長が、利休切腹の数か月前に、病で他界しているのです。
 
そのあたりから、秀吉は、朝鮮出兵、その窓口を石田三成に限ってしまう(尾張派の反感を買う)、千利休の切腹、甥・秀次の切腹と、老害と思われるような事を次々命じます。
 
利休は、秀長に重用されていました。
秀長の死によって、大きな後ろ盾を失くし、後に述べる大徳寺の木像問題で、ついに自宅謹慎を命じられることになります。
 
北政所を始め、細川忠興、古田織部など、多くの人が仲裁に入り、秀吉に詫びるようにと助言しましたが、利休はそれを聞き入れませんでした。
 
権力の道具として茶道を使うことは、「わび茶」の創始者・村田珠光、師の武野紹鴎が、強く否定したことです。自分が秀吉に頭を下げるのは師だけでなく、「茶の道」そのものをも、侮辱することになると考えたからでしょう。
 
利休は、「切腹せよ」との命を伝える使者に、最期の茶を点てた後、切腹して果てました。享年69歳でした。
 
利休の首は、京の一条戻り橋で、大徳寺の利休の木像に踏ませる形でさらされたそうです。

 

千利休の切腹の理由

 
 
利休が切腹を命じられた原因となったのは何だったのでしょうか?
 
まず、直接の原因は、理由1の大徳寺の木造問題です。
 
しかし、秀吉と利休の間には、長年の積み重なったいろいろなあつれきがあったと思われます。
 
たった1つの事が原因ではなく、いろんな要素が絡み合っていたのでしょう。
ここでは、大きく考えられる5つの理由を考えます。

 

理由1.大徳寺の利休の木造問題

 

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大徳寺とつながりの深い利休は、古くなった大徳寺の山門を改修するにあたり資金援助を行いました。
 
大徳寺の住職・古渓宗陳は、これに感謝の意を表すため、利休の木像を作り、山門の上に安置しました。
 
秀吉は、これに激怒します!
理由は、利休(の木像)が山門の上から秀吉を見下ろすとは無礼極まりないということでした。そして、利休に謹慎を命じたのです。
 
この理由は、大河ドラマなどでもよく取り上げられます。
実際に、利休切腹の表向きの理由は、これでした。
 
秀吉は、このことを詫びれば許してやってもよいと、利休に頭を下げさせ、上下関係をはっきりさせるきっかけにしようとしたのです。
 
しかし、利休は、それを聞き入れなかったのでした。

 

理由2.娘を秀吉の側室に出すのを拒んだ

 
 
これもよく取り上げられる理由です。
 
利休には2人の娘がいました。
そのうちの1人を気に入った女好きの秀吉が、自分の側室として仕えるように命じます。
 
しかし、利休はこれを拒否、怒った秀吉が切腹を命じたというものです。
 
これは、自分にたてつくむかつくヤツとは思ったでしょうけれど、それが即、切腹にまで結びつくとは考えられません。
 
2人の仲がこじれたエピソードの1つではあるでしょう。

 

理由3.「茶の湯」に対する思想の違い

 
 
利休が大成させた「わび茶」は、「わびさび」の精神に基づいたものです。
それゆえ、道具は地味で質素なものを使い、狭くて最低限の光しか入らない造りの茶室「わび数寄」をよしとしました。
 
しかし、秀吉は、とんでもない成金趣味の派手好きで知られています。
「黄金の茶室」を作ったり、「大茶会」をたびたび開き、それが天下人の名にふさわしいと思って、絢爛豪華な「茶の湯」を好みました。
 
秀吉の「茶の湯」の好みが、利休にとって軽蔑に値するものだったのは、間違いないでしょう。
 
こうした「茶道」に対する好み・思想の違いが、利休と秀吉の対立を生み出す一端だったとも考えられます

 

理由4.政治的な利権争い

 
 
利休は、秀吉の弟・豊臣秀長とたいへん深い関係にありました。
 
秀長は利休のことをたいへん慕っていて、豊臣政権下で利休の強い後ろ盾となります。
 
その頼りの秀長が、利休切腹の数か月前に病死してしまいました。
 
利休は、他にも戦国の世を共に切り抜けた細川忠興、徳川家康などの主だった戦国武将たちと茶の湯をとおして付き合いがありました。
 
それを面白く思わなかったのが、豊臣政権が天下を取った後に、官僚として重用された石田三成前田玄以だったのです。
 
秀長という後ろ盾を失った利休が、彼らの陰謀により、些細なことを取り上げられて、切腹に追い込まれたとも考えられます。

 

理由5.交易都市・堺の権益の確執

 

 
 
利休が拠点にしていた堺は、当時の海外貿易の拠点で、国内外の品物が行き交う町でした。
 
秀吉はこの交易を独占するため、堺に対して重税を課す圧力を加えます。
これに、堺生まれの利休はもちろん反対し、堺の自治性や権益を守ろうと画策しました。
 
利休は、茶人ですが、商人でもありました。
そして、大きな権力と資産を持っていたのです。
 
利休が活躍した時代は「茶の湯」に対する人気がヒートアップし、茶器や茶道具の価値は、明確に決められていませんでした。ですから、「茶の湯」の権威・利休が、自由に茶器の値段を決めていたのです。
 
つまり、茶器の値段は利休の言い値で決まったので、彼はそれを利用して、どんどん私腹を肥やすことができたのでした。
 
権力と資産を手に入れた利休は、やがて尊大に振る舞うようになったともいわれます。
 
そうすると、それを煙たく思い、豊臣政権から利休の力を排除しようという動きが起こっても、不思議ではありません。

 

その後

 

 
千利休の切腹から数年後、利休の孫の千宗旦が家の再興を許されることとなりました。
 
そして宗旦の後を継いだ三男・宗佐が「表千家・不審庵」を、
四男・宗室が「裏千家・今日庵」を、
次男・宗守が「武者小路千家・官休庵」を、それぞれ開きます。
 
これが、現在に続く「茶道・三千家」の誕生です。

 

千利休の茶道・表千家・裏千家の違いはこちら!
 

そして現在では、日本だけにとどまらず、世界各国に日本の伝統文化「茶の湯」として広まっています。
 
千利休が名誉をかけて切腹したことで、「茶道」はその本質を失うことなく、脈々と受け継がれることに成功したのです。

 
 

今は、こんな風に現代的な検定試験もありますよ。
 
さすがは「裏千家」、商売がうまいなあ・・・。
とはいえ、体系的に茶道について学べるのでよいと思います。
 
茶道部の娘は、11月に3・4級を受けるそうですよ。
この2つの級は入門なので、併願する人が多いのだそうです。
確かに4級テキストは、簡単でした。↓↓↓

 

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