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「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの あふこともがな」
 
 
(私はこの世からいなくなるわ。だから、この世の思い出として、もう一度あなたに会いたいのよ。)
 
 
この歌は「百人一首」56番、恋多き女流歌人・和泉式部のものです。
 
 
病に倒れながらも、最期まで情熱的な恋の相手に文を出すところが流石です。この後、彼女は病気が治り、見事に復活しておりますが・・・。(^_^;)
 
 
今回は、かの藤原道長に「浮かれ女」とあきれられた、和泉式部の濃ゆい恋に迫ります。

 

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和歌の才能は本物だった

 
 
 
和泉式部は、平安中期、900年代後半に活躍しました。この時代の女性にはありがちですが、彼女も生没年や本名は分かっていません。父は越前守の大江雅致(まさむね)、母は越中守の平保衡(やすひら)の娘といわれます。
 
 
幼い頃から、和歌に親しむ恵まれた環境にあったようです。夫が和泉守橘道貞だったので、彼女は、和泉式部と呼ばれるようになります。
 
 
和泉式部といえば、やたらと男性遍歴が多く、スキャンダラスな恋ばかりしているイメージがありますが、彼女の和歌の才能は、当時から本物と認められていました。
 
 
だからこそ、中宮・彰子のサロンメンバーに加えられたのです。当時、藤原道長は、娘で一条天皇の中宮・彰子が皇子を産んだこともあって、優れた女房を集めていました。
 
 
彰子のサロンには、紫式部、赤染衛門、伊勢大輔など、当時の才媛が集います。そこに、素行が悪いと知られている和泉式部がスカウトされたというのは、やはり、和歌の才で道長の御眼鏡にかなったということでしょう。
 
 
同僚の紫式部も、その日記の中で、「和泉式部は素行に問題はあるけれど、和歌の才はなかなかだわ。」と評価しています。

 

 

親王兄弟2人を恋の虜に?小悪魔的女性

 
 
 
和泉式部は、始めは夫の橘道貞について和泉国に行ったようですが、なぜか途中、京に戻ってきています。刺激が足りなくて、別居中だったのでしょうか。
 
 
そして、その夫の単身赴任中に、冷泉天皇の皇子・為尊親王と激しい恋に落ちるのでした。(その後、夫とは離婚)
 
 
いくらこの時代でも、親王との恋は、身分違いもいいところです。かなりのスキャンダルだったようですが、燃え上がる2人には、周りの雑音は聞こえません。
 
でも、残念ながら、この恋は、すぐ終わってしまいます。為尊親王が、若くして亡くなってしまったのでした。
 
 
和泉式部は、もちろん嘆き悲しみますが、喪に服して1年ほど過ぎた頃、亡き為尊親王の弟・敦道親王と恋に堕ちます。早っ!!!
 
 
彼女の代表作「和泉式部日記」は、もともと為尊親王に仕えていて、その後、弟・敦道親王に仕える小舎人童(こどねりわらわ)に出会うところから始まります。
 
 
つまり、「和泉式部日記」は、敦道親王との燃え上がる恋を「和歌」を中心に書いた日記なのでした。
 
 
敦道親王は、和泉式部に夢中になり、正妻(藤原家の娘)がいるのに、自宅に連れ込んで住まわせてしまいます。自宅とはいっても、親王なので大邸宅ですが、正妻は出て行ってしまいました。見事な略奪婚ですね。親王は彼女と付き合い始めてすぐ夢中になり、自宅に住まわせています。
 
 
和泉式部は、敦道親王の子を産みますが、敦道親王も若くして亡くなってしまうのでした。
 
 
後ろ盾がなくなった和泉式部に救いの手を差し伸べたのが、藤原道長でした。
 
 
道長は、先に述べたように、和泉式部のことを「浮かれ女」と言っていたぐらいなので、恋人ではありません。
 
 
娘・彰子の教育係(和歌担当?)として、サロンのメンバーに加えたのです。中宮・彰子に仕えてから、和泉式部は、藤原保昌と結婚しています。( ̄▽ ̄;)
 
 
彼女の情熱的な和歌の数々を読むと、恋愛遍歴も、才能の肥やしなのかなーとは思えます。
 

 

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「和泉式部日記」の和歌

 
 
 
それでは、最後に「和泉式部日記」より、代表的な和歌をご紹介します
 
 
★「よもすがら なにごとをかは 思ひつる 窓打つ雨の 音を聞きつつ」
 
 
(一晩中、あなたの事を想っていたんですよ、窓を打つ雨の音を聞きながら)
 
 
★「ひと夜見し 月ぞと思へば ながむれど 心もゆかず 目は空にして」
 
(あの晩あなたと一緒に見た月だと思って眺めると、心は上の空だわ)
 
 
★「時雨かも なにに濡れたる 袂ぞと 定めかねてぞ 我もながむる」
 
(時雨かしら、私の涙かしら、 何に濡れているのか分からないけど、ずっとあなたを想っています)
 
 
とにかく情熱的ですね。
 
 
また、彼女の和歌は、「あなたがはっきりしないなら、私のほうから会いに行くわよ!」というような強い自己主張とフットワークの軽さを表すものが多いです。
 
 
この時代、都の女性たちは、「待つ女」なのが当たり前だったので、すごい行動力です。
 
 
そういうところが、素行不良とみなされたのかもしれないし、また上流貴族の男性を虜にしたのかもしれません。
 
 
いずれにせよ、小悪魔的魅力のある女性だったのでしょう。(´・ω・)
和泉式部のときめき日記はこちらです。

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