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源平の争乱の武将たちは、『平家物語』の登場人物としてイキイキ描かれています。
 
 
物語なので史実と異なるところも多いですが、この中には美しくかっこいい女性も登場します。
 
 
今回はその中の一人、木曽義仲の愛人で女武者の巴御前についてお伝えします。

 
 

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巴御前は木曽義仲と幼なじみ?

 

 
『源平盛衰記』によると、巴は幼い木曽義仲をかくまって育てた中原兼遠の娘でしたす。(諸説あり)
 
 
のちに義仲の腹心となる樋口兼光・今井兼平の妹です。
 
 
木曽義仲の父親は源義賢で、源頼朝の父・義朝の弟だったので、義仲は源頼朝の従兄弟にあたる「源氏」の武士でした。
 
 
1155年、義仲の父が源氏の内輪もめで討たれ、当時2歳の義仲は、乳母の夫の中原兼遠にかくまわれることになったのです。それ以降、義仲は兼遠の子供たちとともに野山を駆け回って育ちました。
 
 
つまり、巴と義仲は、兄妹のように同じ家で育ったのでした。

 
 

平氏追討の令旨を受け上洛

 

 
平安末期、京の都は平清盛を中心にした平氏が権勢を誇っていました。
 
 
それはもう、「平家にあらずんば人にあらず」などと平気で口にする空気読めない人(平時忠)まで出る始末です。
 
 
当時、院政を行っていた(はずの)後白河法皇は、平清盛と対立して幽閉されておりました。
 
 
なんとか平氏の力を削ぎたかった後白河法皇は、息子の以仁王(もちひとおう)を介して、全国各地の武士に向けて「平家討伐」の令旨を出しました。これが源平合戦のきっかけになります。
 
 
令旨を受け取った木曽義仲は、「信濃源氏」を名乗って武装しし上洛しますした。巴(ともえ)も鎧兜を身につけ、兄弟とともに同行しました。

 

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倶利伽羅峠の合戦での活躍

 

 
木曽義仲は、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いの勝者です。この合戦は、『平家物語』の中でも大きな見せ場の1つです。
 
 
倶利伽羅峠の場所は富山県と石川県の間、ここで、平維盛の兵10万を、撃退しました。
 
 
この合戦は主に夜襲によって平家の大軍を大混乱させたのが勝因となりました。
 
 
敗者の平維盛は平清盛の嫡男・重盛の息子で、「美貌の貴公子」とも呼ばれます。それは美しい貴公子で、「今昔見る中に、ためしもなき」「容顔美麗、尤も歎美するに足る」などと、絶賛された人物です。

 
 
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この戦で義仲と共に戦った巴御前は、大将として1軍を任され敵将7騎を討つ大手柄を立てました。
 
 

法皇に嫌われ都を追われる

 

 
木曽義仲は、真っ先に都入りし、平家を京都から追い出した源氏側の功労者のはずでした。
 
 
しかし、義仲の軍は都の都の人々に乱暴を働く者が多く、野蛮な田舎者と嫌われました。
 
 
その後、義仲は備前で平家に大敗し、彼を疎ましく感じていた後白河法皇に、あっさり見捨てられることになりました。
 
 
後白河法皇が鎌倉の源頼朝を使うと決め、彼に義仲追討を命じたのです。
 
 
木曽義仲は頼朝配下の義経の軍に追われ、ついに近江国で最期を迎えました。それが古典で習う「木曾殿最期」のシーンです。
 
 
当初300騎いた義仲の軍は、とうとう5騎になってしまいました。その中には、巴御前(ともえごぜん)も残っていました。
 
 
『平家物語』の中の巴は「色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と称えられています。
 
 
色白でロングヘアの美女で、しかもたいへん強い女傑だったというかっこよさ。
 
 
戦国時代までは騎乗して男性と共に戦う女武者の姿は、そんなに珍しくなかったそうです。
 
 
とうとう追い詰められこれが最期と覚悟を決めた義仲は、女を従者にしていたと知られては恥だと、巴に離脱して落ち延びるように命じました。最期まで共にありたいと思っていた巴ですが、主君の命なので仕方なく従いました。
 
 
そして、「木曾殿(義仲)に、最期の軍して見せ奉らん!」といい、怪力で名高い・鎌倉方の御田八郎師重の首に一瞬で飛びついて、それを素手でねじ切って捨ててしまったそうです。
 
 
このシーンはフィクションだと思われますが、とにかくその後、巴は義仲と数秒間見つめ合い、愛馬「春風」に乗って風のように走り去ったのでした。

 
 

巴御前は正妻ではなかった


 
木曽義仲には、愛人がたくさんいました。巴御前もその中の一人です。
 
 
義仲の正妻は関白・藤原基房(もとふさ)の娘・藤原伊子です。
 
 
義仲が上洛してからの政略結婚で、義仲が都を追われるまでのとても短い結婚生活でしたが、田舎者の義仲にとっては天女のようなお姫様で、大切にしていたそうです。
 
 
義仲が討ち死にした後、伊子は源通親(みなもとのみちちか)の側室になりました。
 
 
巴御前は、義仲に長く使えていた「便女(びんじょ)」と呼ばれる愛妾でした。彼女の他には葵御膳(あおいごぜん)、山吹御前(やまぶきごぜん)などがいました。(『平家物語』)
 
 
巴御前たちは武家の娘で幼いころから薙刀(なぎなた)などの武器を扱う訓練を受け、義仲と共に暮らしておりました。
 
 
つまり、巴は普段は愛妾として義仲の身の回りの世話をし、合戦になると女武将として軍勢を率いて戦う従者だったのです。

 
 

おわりに


 
『平家物語』の巴御前の去り方は、清々しい潔さを感じます。最後までかっこいいです。
 
 
木曽義仲はその後、今井兼平とたった2騎になりました。今井兼平は巴の兄で義仲の義兄弟です。
 
 
もはやこれまでと悟った兼平が、義仲が自害する間、自分が時間稼ぎをすると敵の軍に向かっていきました。義仲が兼平を案じて後ろを振り返ったその瞬間、額に敵の矢を受けてしまいます。31歳でした。
 
 
巴御前は落ち延びた後、源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生み、晩年は尼になって長生きしたとも伝わります。しかし、この後日談は史実となる裏付けはありません。
 
 
巴御前がその後、生き延びることができたのか、誰にもわからないのでした。

 


 
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