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幕末に会津藩のお抱えとなった「新撰組」
 
 
局長は近藤勇ですが、副長・土方歳三は、近藤勇の処刑後も、箱館戦争まで生き残り、最後まで戦い抜きました。
 
 
敗軍の新撰組がこれほど人気があるのは、当時、官軍・敗軍のどちらもが日本の行く末を本気で案じて戦っていたのと、滅びの美学なのかなと思います。
 
 
新撰組は、京の都で名をあげますが、彼らは武州多摩(東京)出身者を中心とした組織でした。
 
今回は、新選組副長・土方歳三を紹介します。

 
 

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「バラガキ」と呼ばれた多摩時代


 
土方歳三は、武州多摩の豪農土方家の4男として生まれます。
 
 
誕生ー1835年5月31日
死没ー1869年6月20日
 
 
出生地は、武州多摩(現在の東京都日野市)
 
 
家族で「俳諧の連歌」などをたしなむ、わりと教養ある家庭でした。祖父は「三月亭石巴」という俳人で、義兄の佐藤彦五郎も「春日庵盛車」という俳号を持っていました。
 
 
なので、土方歳三も、故郷にいるときから俳句を詠み、「豊玉」という俳号で句集も作っています。
 
 
一方で、彼は、かなりやんちゃな暴れん坊でもありました。「イバラのように人を痛めつける悪ガキ」という意味の「バラガキ」と呼ばれていたそうです。
 
 
銀魂(漫画)でも「バラガキのトシ」って言われてましたね、そういえば・・・
 
 
本当の話のようですよ。
 
 
17歳のとき、道場「試衛館」に仮入門し、25歳で正式に入門を許されました。この「試衛館」に入ったのが、彼の大きな人生の転機となります。
 
 
ここで、近藤勇や沖田総司、山南敬助、井上源三郎、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、斎藤一ら、後に新選組の幹部となる人たちと出会います。近藤勇は新撰組局長、山南敬介は総長に、残りはすべて隊長に就任しています。
 
 
土方は、家業の打ち身薬「石田散薬」の行商をしながら、この道場で、日々、剣の修行をし、仲間との友情を深めていったのです。
 
 
剣術は、「天然理心流」の中位目録免状を持っていて、実戦(けんか)は、たいへん強かったといわれます。
 
 
子供のころから「武士」に憧れて、願いがかなった暁にはこれで矢を作るといって、生家の庭に「篠竹」を植えたというエピソードが残っています。
 
 
その竹は、今の土方の生家跡の「土方歳三資料館」に生えていて、見学もできます。

 
 

新選組「鬼の副長」に!


 
関東から京の都へ上り決起した新撰組は、武士を志す農民などの寄せ集めの集団でした。烏合の衆のような組織をまとめるには、厳しい掟が必要となります。
 
 
土方歳三は、新選組の鉄の掟とよばれる「局中法度」(後にこう呼ばれたともいわれる)を作り、局長の近藤勇を筆頭にすえ、規律を破ったものには厳しい懲罰を与えるなどの取り締まりを強化しました。
 
 
もともと馬が合わなかった当初の局長・芹沢鴨の暗殺をはじめ、試衛館時代からの仲間だった山南敬助藤堂平助も粛清の対象になりました。粛清された隊士の数は、30人を超えるといわれます。
 
 
★池田屋事件
 
 
取り締まりを強化した新選組は、薪炭商「桝屋」の主人と偽っていた近江浪士の古高俊太郎の捕縛に成功します。そして、厳しい取り調べを行って口を割った古高俊太郎の情報が、「池田屋事件」に発展していくのです。
 
 
池田屋事件は、旅籠・池田屋で、長州藩士たちの一橋慶喜と松平容保を暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去るという計画を潰す戦闘でした。この事件で、新撰組は一躍有名になります。
 
 
ちなみに、池田屋のあった場所は、今は居酒屋「はなの舞」になっています。
 
 
土方歳三は、姉・のぶや義兄、甥たちには、優しい一面をのぞかせていたようですよ。ナンバー2という立場上、冷酷な処分を下し、汚れ役を引き受ける必要があったのかもしれませんね。

 
 

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近藤の処刑から函館での最期まで


 
時代の流れは、次第に幕府や会津藩・新撰組に厳しくなっていきます。
 
 
「鳥羽伏見の戦い」「甲州勝沼の戦い」で敗戦し、故郷からの同志だった新選組幹部の永倉新八と原田左之助が、離隊してしまいます。
 
 
その後、敗走先の下総流山で、土方は、近藤勇と分かれます。近藤勇は、除名嘆願をしていましたが、それが叶わず斬首されました。
 
 
会津戦争でも、城の陥落は時間の問題と思われました。そのとき、唯一残っていた試衛館時代からの仲間・斎藤一に会津の新撰組を託して、土方は仙台へ向かいます。
 
 
そこから、土方歳三は蝦夷(北海道)へ渡航します。
 
 
箱館での土方は、部下たちから大変慕われていたそうです。部下一人一人に酒をふるまいながら、労をねぎらったり、親身に相談にのることもあったという証言があります。
 
 
土方歳三は戦死する1ヶ月ほど前、16歳の小姓・市村鉄之助に、自分の写真と辞世の句、髪の毛数本を託して、日野の義兄・佐藤彦五郎に届けるようにと命じました。市村は最期まで共に戦いたいと懇願しましたが、命に従えとすごい剣幕で叱られたそうです。
 
 
小姓の市村鉄之助に遺品を託したのは、まだ若い彼を死なせるのを不憫に思った土方の優しさなのでしょう。
 
 
土方歳三は、箱館の一本木関門で狙撃され、馬上で銃弾を受けて戦死しました。
 
 
それから約3カ月後、ボロボロの身なりをした市村鉄之助は、無事に佐藤彦五郎の元へたどり着きました。
 
 
このとき、市村が佐藤に届けた土方の手紙の中に、私たちがよく見るあの土方歳三の写真があったのです。
 
 
           コレです。(*’▽’) ↓↓↓


 
 

おわりに

 
土方歳三は、1869年の箱館戦争で戦死します。享年34歳でした。
 
 
冷酷な鬼の仮面をかぶっていた新選組副長時代と、箱館戦争中の部下への労りのある接し方は、かなり違っているように思えます。
 
 
もともとの仲間たちを失い新撰組副長の仮面を外すことで、自分らしさを出すことができたのかもしれません。
 
 
武士の家出身ではないけれど、立派な武士らしい最期を遂げた姿に、男の浪漫を感じます。(*‘∀‘)
 
 
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