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こんにちは。
 
以前、こちらに江戸の町では、元手いらずでいろいろな商売を始めることができると書きました。
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【江戸庶民の暮らし】失業がなかった?元手なしでも商売できた驚きの理由
 
確かに、一人または一家で始める小さな商売は、比較的自由でした。
 
でも、大店(おおだな)となると、話は別ですよ。
 
江戸有数の呉服屋さんや金物問屋さんなどは、主人一家だけでなく、たくさんの奉公人を抱えていました。
 
職人の世界でも、大きい組合のようなところは、厳しい師弟関係がありました。
 
今回は、江戸のそのような大規模な商家の世界について、お伝えします。

 

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今も続く大呉服店・越後屋・大丸呉服店・白木屋


 
江戸庶民は、その日暮らしのような、お気楽な生活をしている人がたくさんいました。
 
一方、大店(おおだな)で働く人たちは全く別で、大変厳しい出世競争、というか、生存競争にさらされていました。
 
労働組合なんてものがないので、かなり過酷です。
 
江戸には、越後屋・大丸呉服店・白木屋という「三大呉服屋」がありました。
そのどれもが、本店は京都や伊勢にあったのです。
 
大丸呉服店は、「京都」発祥のお店で、今もその名が残る大丸百貨店です。
 
白木屋も、「京都」発祥で、材木商から呉服店になり、現在は東急百貨店として存続しています。
 
そして、越後屋は、「近江」の佐々木家家臣・三井氏が「伊勢」に移って始めた、江戸最大の呉服店でした。現在の三越百貨店(三越伊勢丹)です。
 
京都や伊勢に本店を置いたのは、高級な絹織物が他では作れず、仕入れることもできなかったからです。
 
このような大規模呉服店は、奉公人をすべて創業者の出生地の京都や伊勢で採用していて、江戸現地での採用はなかったそうです。
 

 

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「越後屋」の年季奉公の出世レース

 

 
それでは、江戸最大の呉服店「越後屋」を例にあげて、奉公人の出世レースを見てみましょう。
 
越後屋の奉公人は、「男子のみ」でした。
まず、11~12歳の男子が、伊勢松坂で採用され、奉公が始まります。
 
採用されるとき、最初に「店表(たなおもて)」「台所」かに分けられます。
この2つのコースは、始めに決められ、途中変更はできませんでした。
 
まず、ここで、自分の将来の道が決定されるのです!
 
時代劇で見かける「丁稚さん」は、「店表コース」に入りたてぐらいの子なんでしょうね。
 
「店表」には、19もの職級がありました。
一歩一歩、上っていかなければいけません。
 
むろん、修行は大変厳しかったので、脱落者もたくさんいました。
厳しさに逃げ出す子もいれば、使えない(商売に不向き)とクビになる子、脚気になって国元に返される子も多かったそうです。
 
5人中2人も残ればよいという感じでした。
 
職級が上がるたびに、激しい出世競争が繰り広げられます。
 
管理職になるまで15年ぐらいかかり、40歳ぐらいで、自分の家から通えるようになります。
 
その頃になって、ようやく結婚できるようになったのです。
 
トップの「大元締」にまで上り詰めることができるのは、たった2人(越後屋の場合)です。60歳ぐらいで、なったようですよ。
 
現代人も真っ青になるような、一生、出世競争にもまれる生き方ですね。
 
はあああああああああああ、という感じです。
 
あなたは、上り詰めたいですか?
私は、長屋暮らしの庶民の生活で十分なのでした。(´▽`*)

 

「のれん分け」は先鋭的な経営戦略だった!

 

 
大きな商家で働くのは、とんでもなく大変だったとわかりました。
でも、それは、商家全体の中では、極々一部です。
 
もう少し、小規模の商家の場合はどうだったのでしょう?
 
実は、江戸では、どんなに小さな商家でも、表通りに店を出している場合、丁稚や下男、下女を雇って営業していました。
 
でも、小規模商家では、そんなに細かい昇進のランク分けはありませんでした。
 
たいていは、「丁稚十年、手代十年」、それから「番頭」になれました。
 
「番頭」になって5~10年ほど経ち、商才があると認められると、「のれん分け」をしてもらい、独立することができました。
 
この「のれん分け」が、すごくよく考えられた経営システムなのです。
「のれん分け」と言っても、本店と同じ商売をするのは許されなかったのですよ!
 
まあ、ちょっと考えてみると、商才のある番頭を独立させて、同じ商売をさせるなんて、商売敵を作り出しているようなものですよね。
 
ですから、「のれん分け」するときは、本店と関連のある別の商品を扱わせるか、全く別の商売をさせたそうです。
 
例えば、関連のある商売をさせる場合だったら、本店で呉服の小売りを行っているなら、「のれん分け」した店では、木綿・綿製品の小売りや糸物の小売りなど、関連商品を取り扱い、それぞれを専門店化していったのです。
 
そうすることで、グループ企業全体の競争力アップも図れたということですね。

 

おわりに


大店(おおだな)の奉公人は、本店の地方採用で江戸まで送られてきていたのですね。これでは、始め(11~12歳)の頃は、逃げたくても逃げる場所がありません。
 
厳しいです。
 
大店は、後継ぎの教育も大変厳しく、長男だから後継者となれるわけではなかったようです。
自分の店の将来がかかっているので、これももっともなのでしょう。
 
また、職人の世界も、商人以上に厳しかったようです。
名のある職人は、自分の息子を自分で教えず、別の職人の所に奉公に出しました。
 
そうして、優れた職人技を後世に残したのです。
 
「江戸庶民」と言っても、いろいろな生き方があるのだと分かりますね。

 

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