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こんにちはー♪
 
今回は、応仁の乱前夜の将軍家の事情をお伝えします。
 
足利幕府の第6代将軍は「万人恐怖」と呼ばれたおっそろしい将軍でした。
ちょっと、この人、信長タイプじゃないですか?
ダークヒーローですよ、嫌われ者だけど。。。
 
室町幕府の将軍は変人が多くて、すごく興味深いのですが、この人はあまり知られていませんね。大河でやったら、「え? 誰それ?」とか言われそう。面白いから、やってほしいんですけどね。
 
彼は、「応仁の乱」のもと、ひいては「戦国時代」の扉を開けた人物ともいえる大暴君なのでした。
 
そして、なんと!
 
「くじ引き」で選ばれた将軍です!
 
「なんちゅーいい加減な決め方をーっ!」と思ってしまいますけど、当時は、「くじ」=「神意」とみなされていたのです。重要な決定にも使われていたそうですよ。
 
今回は、8代将軍・義政の父でもある6代将軍・義教のサイコパスぶりをお伝えします。

 
 

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くじ引きで決まった将軍・足利義教

 

 
「くじ引き」で物事を決めるって、どういう事だと思いますか?
 
ようく考えてみると、お分かりになると思います。
誰も責任を取らなくて良いという、ある意味無責任な決め方なのですよ。
 
「くじ」や「占い」というのは、当時はまさに「神意」でした。
人知が及ばない、人間が決められない難しい案件のときに、籤(くじ)や占いで決めたのです。
 
でも、将軍の後継者を決めるときは、たいてい現将軍が指名して決めます。
それをしなかったから、問題になったんですよ。
 
「どうして前の将軍が決めなかったの?」と思いますが、決めにくかったのには、やはり理由がありました。

 

仏門に下った4人の兄弟

 

 
室町幕府第3代将軍・足利義満は、強いカリスマ性を持つ将軍で、文化芸術を発展させ、金閣を建て、室町幕府の黄金期を作り上げた将軍です。アニメの「一休さん」に出てくる将軍様でもあります。
 
義教の父は、この第3代将軍・義満です。
 
そして、義教の兄は、第4代将軍・足利義持です。
義持は、父とは違って、守護大名と協調路線をとって、安定した政権を作っていました。
 
その次の第5代将軍には、第4代将軍義持の息子の義量が就任しました。そして、継承争いが起こらないように、弟たちは仏門に送り込まれたのです。
 
その4人の弟の1人が、義教なのです。(つまり4代将軍の弟)
 
しかし、義量(5代)は、早くに亡くなり、義持も病に倒れてしまいました。
そして、義持には、他に息子がいません。
となると、残りの4兄弟の中から6代将軍を選ぶことになりますね。
 
そこで、すでに僧侶になっている4兄弟から1人還俗させて就任させることになったのです。仏門に入った者の中から1人を選ぶというのは、なかなか難しいです。病の身でそんなストレスのかかることはできないということで、彼は、次の将軍職を「重臣たちが話し合って決めるように」と重臣に丸投げしました。
 
困ったのは、重臣たちです。
 
彼らは、それぞれがけん制し合っていた間柄なので、話し合いでまとまるわけがありません。そこで出た案が、「籤(くじ)」なのです。
 
4人の兄弟の中で、当選したのが、35歳の足利義教でした。

 

僧侶上がりの将軍となめられた!

 

 
それまで僧侶だった人が、35歳でいきなり将軍様になったのです。
 
他の兄弟がなっても同じだったと思いますが、守護大名たちは、義教を見くびって、あまり相手にしません。兄の4代将軍の頃から、将軍の権威はすでに弱まりつつありました。
 
将軍とは、強大な権力を持つものではなく、有力守護大名たちの調整をし、朝廷とうまく付き合っていくものとなっていたのです。
 
義教は、就任当初は、くじ引きを提案した畠山満家を重用して、なかなかバランスのとれた統治をしていたのです。
 
しかし、満家が亡くなり、次第に強い権力を持ちたいと思ったのでしょうか。
それから、彼は、反対勢力を粛清していく、「恐怖政治」を行うようになっていったのです。

 

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「恐怖政治」は彼の性格に合っていた策

 

 
義教は、僧侶としてはかなり優秀だったようですよ。
仏門の世界にずっといた彼は、そこでは、なんとかやっていたのです。
 
それが、世俗の権力者の欲望のど真ん中に立たされ、眠っていた気質が表に出てきてしまったのでしょう。恐ろしいですね。
就任後、1年ぐらい経つと、彼は次々と暴力的な処分を下すようになっていきます。
 
例えば、彼に向かって笑顔を見せた大名に対して、あざわらったと怒り所領を没収、気に入らない守護大名が宴会を行ったということで60人あまりを処罰、料理がまずいと怒って、料理人を追放したこともありました。
その後、許してやるから戻ってこいと言い、喜んで戻った料理人を斬首しています。
 
比叡山と争ったときにも、和睦に応じると言って、和睦交渉を行う使者を呼び、やって来た3名の使者を斬り捨てています。
 
信用して喜んで来た人を裏切り、恐怖のどん底に突き落として命を奪うというやり方を好んだようですね。そして、その恐怖にひきつる顔をみて、彼は歓喜したそうですよ。
  ↑
この辺に、サイコパシーな性質が出ていると思います。
 
これが、クセになると厄介です。
もう止まりません。
 
ということで、誰かが強制的に止めるまで、暴走し続けたのでした。

 

「嘉吉の乱」で暗殺される

 

 
就任して数年が経つと、前の代からの老練な重臣がこの世を去っていきます。
そうして、彼は、ますます独裁体制を強めていきました。
 
有力大名の家督相続に口を出して、子飼いの大名家を増やしていったのです。
 
そして、意に沿わない人間は、どんどん粛清していきます。その中には、天皇の母も含まれました。
 
信長が行う前に、比叡山の焼討もしていますよ。中途半端に終わりましたけど。
 
そして、最大のライバルの鎌倉公方・足利持氏との戦いにも勝利します。
それが「永享の乱」です。
足利持氏は自害し、義教は、どんどん専制支配を強めていきます。
 
1440年に、義教は、反目していた一色義貫(よしつら)と土岐持頼(ときもちより)を粛清します。そして、翌年には、結城合戦への参戦命令を拒否した畠山持国が、守護職を解任されて出家しました。
 
義教の苛烈な粛清に、大名たちは明日は我が身かと不安にさいなまれました。
朝廷、寺社、諸大名、すべてとケンカしてますよ、この人。
 
 
そして、ついに嘉吉元年(1441年)6月24日、守護の赤松満祐に暗殺されるのです。
 
当時、義教に気に入られていなかった赤松は、次は自分の番だといううわさを聞きつけます。
 
それではやられる前にやってしまえということで、義教を宴に招いたのでした。
庭の池に子鴨が生まれ、かわいいから見に来てと言って招いたのです。
 
それに応えた義教を、宴の最中に襲い暗殺しました。
 
一緒に招かれた管領たちのほとんどは、義教を見捨てて逃げ出したそうです。
これが、「嘉吉の乱」と呼ばれる将軍の暗殺事件です。
その後、領地の播磨に逃げた赤松は、自害します。

 

おわりに


 
足利義教は、その12年間の統治で、従来の社会秩序をぶっこわした人です。
室町幕府は、外から壊されたのではなく、内部崩壊していったのです。
 
その後、7代将軍は9歳(翌年崩御)、8代将軍は8歳で即位という幼少将軍が続きます。
 
そうして、守護大名が政治に介入し、私欲ばかりで政治を行い、幕府はめちゃくちゃになりました。そして、「応仁の乱」へと突き進むのです。
 
義教を、このとき将軍に選んだのが「神意(くじ)」だったというのが、すごく面白いですね。歴史の大変動を起こすのが、神様の望まれたことだったのでしょうか。
 
でも、まあ、別の人がなったとしても、室町幕府はもともと弱い政権でしたから、遅かれ早かれ弱体化し、戦国時代に移行したと思います。

 
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