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こんにちはー♪
 
今回は、「応仁の乱」が起こる直前の都の状況について、お伝えします。
 
乱の大きな原因は、大きく3つありますよ。
 
(1)将軍家の世継ぎ問題
(2)畠山氏・斯波氏の家督争い
(3)守護大名・国人たちの争い

 
これを読むと、当時の京の都は、すでに荒廃しまくっていて、いつ大事件が起こっても不思議じゃなかったんだなと、お分かりいただけると思います。

 
 

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将軍様はそんなにえらくなかった?

 

 
室町時代は、幕府も江戸幕府や鎌倉幕府より地味な感じがしませんか?
 
鎌倉幕府は、源平の合戦で勝った史上初の武家政権ですし、江戸幕府は幕末に続く約260年という長期政権です。
 
でも、室町幕府って?
誰だっけ?
創業者の足利尊氏は知ってるけど、2代目3代目となると?
 
ちなみに、足利尊氏は、鎌倉幕府の有力御家人だったこともあり、組織は鎌倉幕府とかなり似ております。
 
「3代目は金閣寺建てた人だよ。」
「ああ、知ってる足利義満!」
 
銀閣寺建てた人もいるよ。」
「ええっと、義政だっけ?」
 
という感じで、文化的な業績が目立ちます。
 
足利幕府は、「応仁の乱」の始まる10年以上前、6代将軍義教の統治の後半から崩れていくのです。
 
そもそも義教は、30代半ばで将軍になったため、周りの人になめられないように「恐怖政治」を敷きます。あまりにささいなミスで処分するので、人々に「万人恐怖」と恐れられていました。
 
それで、そんな統治に恐れをなした赤松満祐に、暗殺されてしまうのです。

 ↓↓
【応仁の乱前夜】万人恐怖の6代将軍・足利義教はサイコパスだったの?
 
 
その後の7代将軍は9歳の息子で、たった8カ月で病死、その次の8代将軍に就任したのが、これまた8歳の息子、義政だったのです。この義政が、応仁の乱の原因(1)を作る優柔不断将軍なのでした。
 
2代続けて、10歳未満のお子様将軍ですね。
そうすると、どういう感じになるか、だいたい予想がつきますね。
 
そう、それを補佐する管領などの守護大名、周りの大人たちが政治を意のままに操ろうとし、権力争いが頻発したのです。

 

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大飢饉で京の町が難民だらけに!

 

 
1459年から数年間、西日本では天候不良が続き、凶作・飢饉に見舞われていました。特に、中国地方の飢饉はひどく、多くの人が飢餓に苦しんだのです。
 
それで、中国地方各地の飢えた人々が、京の都になだれ込んできたのです。
 
これは、困りますね。
京は、田の字地区以外の近隣市を合わせても、そんなに広くありません。
 
あっという間に食糧がつきて、1461年には「毎日500人」が飢えで亡くなったという惨状だったのです。
 
1日500人って!!
もう世も末という世相になりますね。
 
当時の将軍は、25歳の壮年将軍・8代足利義政です。
 
25歳って、バリバリ経済政策とか考えられるだろーと思いますが、彼はこのとき、幕府御所を増築しようとして、後花園天皇に叱られています
 
でも、増築は続けているんですね~♪
天皇に怒られても、やりたいことにはすごく意欲的、こりない人です。
 
その後も、大規模な「歓進猿楽」を催したり、ド派手な「お花見の宴」をしたりと、贅沢三昧でした。
 
 
ここまでくると、この人、空気が読めないのではなく、読む気がなかったのかもしれません。

 
 

おわりに


 
こうして、将軍の権威が失墜し、守護大名が力を持ち、農民たちの不満がどんどん膨れ上がっていったのでした。
 
なんだかもう、反乱の起こる条件が整いつつある感じです。
 
そして、生活に追われる農民たちが徒党を組んで、在地の国人と結びついて蜂起するようになるのです。
 
京都の治安は、どんどん悪くなり、盗賊などの悪党に略奪されることも増えました。
 
 
「応仁の乱」が起こる数年前から、すでにいつ大事件に発展してもおかしくない世相にあったのです。

 
 
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