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こんにちは!
 
今回取り上げるのは明智光秀です。
 
明智光秀は、分かっていることが少なく謎だらけで、すごく気になる人なのです。
 
「本能寺の変」で主君・織田信長を討った人として有名ですが、この人は、若い頃のことが、あまり知られていないのです。「本能寺の変」も、動機がはっきりしないため、戦国最大の謎といわれています。
 
また、損傷が激しくて首実験での本人確認ができなかったため、実は、生き延びていたとか、徳川家に仕えた謎多き僧「天海」=「光秀」だとかいう異説もあります。
 
ミステリーですね。(´・ω・)
 
そんな謎も含めた、明智光秀を紹介します。(*’▽’)

 

明智光秀「年表」


             「福知山城」

 
年表を見ると、30代で朝倉義景に仕える以前の史料が、あまり残っていないと分かります。
 
つまり、前半生が、謎に包まれているのです。
 
● 1528年(0歳)
 
美濃の斎藤道三の家臣、明智光隆の長男として誕生。
 
 
● 1556年(28歳)
 
斎藤道三の息子・斎藤義龍に明智城を攻められて、明智一家は離れ離れに。
光秀は浪人になり、その後、諸国を放浪する。
 
 
その後・・・
 
浪人となって各地を転々としながら、鉄砲などの武器の技術や和歌などの教養を身につける
その後、越前(福井県)の朝倉義景に仕える。
 
 
● 1568年(40歳)
 
朝倉義景は将軍家の復興に協力しなかったため、光秀は織田信長に近づく。
信長が了承し、信長と光秀は足利義昭と共に京都に上洛する。
足利義昭は朝廷に承認され、15代将軍となる。
この件の後、朝倉義景から織田信長に乗り換える。
 
 
● 1571年(43歳)
 
織田信長の命に従い、明智光秀が実行部隊として比叡山の焼き討ちを行う。
 
 
● 1572年(44歳)
 
信長から近江国の志賀郡(滋賀県)5万石を与えられる。
防備の拠点として琵琶湖岸に坂本城を築城、城主となる。
 
 
● 1573年(45歳)
 
越前国攻めを成功させる。
信長と共に、足利義昭(山城槇島城)を攻める。
義昭は敗北し、室町幕府は事実上滅亡する。
 
 
● 1577年(49歳)
 
信長に謀反を起こした松永久秀の居城・信貴山城を攻める。
松永久秀を破る。
 
 
● 1578年(50歳)
 
丹波国に亀山城を築城する。
坂本城と亀山城、二つの城の主に‼
 
 
● 1579年(51歳)
 
丹波国の波多野秀治、秀尚兄弟を攻めて落城させる。
 
光秀の働きで、織田家は丹後国を手に入れることに成功。
信長より丹波国一国の29万石を与えられ、織田家の近畿方面における司令官となる。
福知山城を築城し、娘の夫・明智秀満を城主とする。
 
 
● 1582年(54歳)
 
羽柴秀吉と共に、中国地方を攻めるように命じられる。
進軍の途中になぜか軍を引き返し、織田信長のいる本能寺を襲う。(本能寺の変)
信長はそこで自害。
 
知らせを聞いて中国地方から引き返してきた秀吉軍と戦って敗北する。(山崎の戦い)
逃げる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲撃されて死亡。(享年55歳)

 
 

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謎1 若い頃のことが知られていない

 

      「坂本城の近くの明智光秀像」

 
明智光秀は、28歳のときに一家が離散し、放浪の身になります。
 
それから朝倉義景に仕えるまでの間のことは、あまり知られていません。
 
ですが、その間に、鉄砲などの武器の技術や教養を身につけたと思われます。
 
義景に仕えるようになったときには、すでに鉄砲の扱いは百発百中で、教養も深い優秀な武士として登場しているのです。
 
どこで、どんな風に技術を学んだのでしょうね。
 
 
そんな有能な人物だったので、織田信長の信頼も、相当厚かったようですよ。
それは、この年表からも、なんとなく分かると思います。

 

 

謎2 織田信長との関係

 

 
明智光秀は、織田信長に、たいへん信頼されていたようですが、光秀のほうは、どうだったのでしょう。
 
光秀は、柴田勝家などとは違って、信長に仕えるまでいろんな人に仕えてきました。
 
有能ではあったけれど、信長の軍の中では、新参者だったのです。
しかし、光秀は生真面目で情け深い人だったので、信長だけでなく家臣たちからも信頼されていたといわれます。
 
真実かどうかは、結局、よく分かりません。
でも、信長への恨みから本能寺の変を起こしたというのは、やっぱり私としては、動機が薄いように感じるのです。
 
実際の光秀の人間性が分からないので、何ともいえないところですが・・・。

 

謎3 「明智光秀」=「南光坊天海」説?

 

 
本能寺の変の後、坂本城へと落ちのびる途中に、光秀は落ち武者狩りで農民に殺されます。
その後、秀吉のもとに首が届けられたときには、顔の皮がはがされていて、本人確認はできませんでした。
 
そこから、もしかしたら、明智光秀は生き延びているのではないかという、歴史のお約束ような説が登場するのです!
 
そして、徳川家康に仕えた謎多き僧「天海」が、光秀なのではないかという説がささやかれています。
「戦国バサラ」でも、光秀と天海様は激似(CVも同じ人)でしたね^^♪
ゲーム(アニメ)のキャラでも、そうなってるってことは、かなり広まっている異説だとわかります。
 
その根拠は、「本能寺の変」以降の年に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っていることや、天海が造設した「日光東照宮」の装飾に、明智家の家紋「桔梗紋」が、たくさん残っていることなどです。
 
また、以前テレビ番組で、光秀と天海の筆跡鑑定を行い、極めて似ているという鑑定結果が出たというのもありました。
 
テレビなので、ヤラセかもしれませんけど。
私、マスコミは、あまり信用していません。
 
歴史のミステリーは、答えが見つからないところが、魅力です。
 
織田信長も明智光秀も、子孫が残っています。
彼らの誰かに、何か伝わっていることがあったらと考えると、おもしろいですね。

 

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