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こんにちは。
 
足利義政といえば、どんな人物を思い浮かべるでしょう?
 
「銀閣寺を建てた人」として、よく知られる人物です。
私は、この人、すごーく興味があるのですよ。
 
この人は、将軍様なのに領民の生活の安定なんぞそっちのけで、自分の好きな事、芸術活動に邁進し、後世ダメ将軍のレッテルを貼られています。
 
おそらく、始めはいろいろ葛藤もあったと思うんです。
しっかりした将軍にならなければと、思ったこともあったでしょう。
 
でも、大名たちは、若い将軍の言う事を聞かないし、妻は最恐・日野富子です。
もう嫌になって、好きな事だけしようと切り替えたんじゃないかなと思います。
 
まあ、その割には、息子が先に亡くなったら、もう一度、政治に口出ししようとか、いらんことを考えてますけど。
最恐妻・日野富子に一蹴されたようです。
 
彼の欠点は、中途半端に口出ししたりする、優柔不断なところでしょう。
政治家・将軍としては、ダメですね。
 
今回は、そんな彼の将軍としての能力について、お伝えします。
 

 

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応仁の乱の火種は、第6代将軍・義教

 

 
京の都を灰にしたといわれる「応仁の乱」は、畠山・斯波の跡継ぎ争いに加え、足利8代将軍・義政の後継問題が原因で起こりました。
 
実は、この後継争いの火種を作ったのは、足利義政の父の6代将軍・義教だったのです。
 
義教は、30代を過ぎて将軍職についたので、周りの者からなめられないようにしようと考え、「恐怖政治」を行いました。畠山氏や一色氏・土岐氏など守護大名の当主を、ほんのささいなことで処罰していきました。
 
そして、その暴君ぶりを恐れ、いつか自分も粛清されると思った赤松満祐(みつすけ)に、暗殺されたのです。これが「嘉吉の乱」と呼ばれるものです。
 
その結果、どうなったかというと、将軍はまだ幼い息子(義政の兄)が継いだため、大名たちは、義教以前に力を持っていた旧勢力と、新勢力との間で、当主の座を奪う争いばかり繰り返されました。中でも、特に厄介だったのが畠山氏の家督争いでした。
 
幕府は、周りの実力者や乳母たちが動かしていました。その兄も夭逝してしまい、義政が8代将軍に就任したのでした。

 

8歳で室町幕府第8代将軍に就任する!

 

 
8歳(正式には13歳)で即位した義政は、父の暗殺を知り、大人たちの醜い権力争いを目の当たりにしながら育ちます。そのせいか、あまり政治に関心がありませんでした。熱血政治家になると父のように殺されかねないし、どうせみんな言う事聞かないしって感じですね。
 
それに、彼は、「東山文化」という日本を代表する文化を作り上げた人です。
芸術家肌だったので、素質的にも政治に関心が薄かったのでしょう。
 
おかげで、山城(京都)の領民たちは、苦しい生活を強いられました。
 
このときに、関西でも大飢饉が起こっているのですよ。
「寛政の大飢饉」という名前もついています。
 
そのときに、義政がとった策は、「ほったらかし」でした。
はい、「無策」です。
 
それどころか、新たに御殿を建てようと計画していたのです。
空気が読めないにもほどがあります。
 
これにはさすがの天皇様も、直々に注意していますよ。天皇から直接注意されるなんて、めったにない不名誉なことでした。イタい人ですね。
 
 
飢える民の救済よりも芸術の追求!
統治者としては、最悪ですね。
 
 
でも、政治力が必要なこんな大変な時期に、めちゃくちゃ芸術家肌だったこの方が将軍に就いたというのが、私はかなり気の毒だなーと思うのです。
 
一方で、幕府がこんな状態だったからこそ、この人は、引きこもって芸術に生きることができたのかもしれないとも思うのでした。

 

 

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早く隠居したいのに!後継争いが勃発

 

 
義政は、20歳のときに日野富子と結婚しますが、政治への関心は、ますます薄れていきます。
 
さっさと上皇になって、隠居生活を楽しみたかったのに、義政にはなかなか世継ぎが生まれなかったのです。
 
それで、29歳のときに、出家していた弟の義視を呼び戻して、家督を譲る約束をします。そして、管領の細川勝元に義視の後見を任せました。
 
しかし、なんということでしょう!
その翌年に、日野富子に息子が生まれたのです。
もう1年待てばよかったねー、とか、ほんとに将軍の子なの?とかいう話は、ひとまず置いておきましょう。
 
そうすると、日野富子は、やはり「我が子を後継ぎに!」と望みます。
そして、細川氏と対立していた幕府の四識・山名宗全に、息子・義尚の後見になってほしいと頼んだのでした。
 
そして、
 
義視(弟)・細川勝元 VS 義尚(息子)・山名宗全
 
という関係が出来上がったのです。
 
争いはどんどん激しくなり、それからも、東軍・西軍入り乱れてのグズグズした戦いが続きました。
 
義政は、弟の義視と仲が悪くなって義視が西軍の山名宗全側に助けを求めたり、伊勢に逃げたり、義政も立場的に中立でいられなくなったりと、もうなにがなんだかよくわからない展開になっていきます。
 
そして、とうとう「応仁の乱」勃発から8年目にして、義政は、息子の義尚(9歳)を将軍にすると決定したのです!
 
室町幕府第9代将軍の誕生です。めでたし、めでたし。
 
 
ところが、将軍の後継問題が治まっても、なぜか乱は続いたのでした。
将軍家の権威が地に落ちているのが、よく分かります。
 
 
もう、義政は、「みんな言う事を聞かないから、もう知らん! わしも好きな事をやる」という感じで、政治を息子と嫁にポイっと投げて、芸術に生きるようになりました。
 
こうした政治的な事情があって、「東山文化」が発達していったのです。
 
でも、それは、山城(京都)の領民のたいへんな犠牲の上に敷かれたものです。
 
政治家なら、なんとかすべきと思うでしょう。
しかしながら、義政にとっては、そんなことはどうでもよいことで、莫大な資金をかけて銀閣寺などを建築していきます。
 
「そんなお金、どこから~?」と思いますが、そこは、やはり、資産家妻・日野富子の援助があったのでしょう。
 
はじめは大名に出資させようとしますが、誰もいう事を聞かず、寺社から取り立てていたようですが、それだけではとてもまかなえなかったと思います。
 

足利義満に憧れていた!?

 

 
彼は、できるだけ早く弟か息子に将軍職を譲り、自分は隠居したいと考えていました。
 
初めは、政治の世界から引退するのではなく、隠居しながら自分が政治を動かそうとしていたそうです。
 
なぜなら、3代将軍義満が、そのような生き方をしていたからです。
 
彼は、義満に憧れていて、義満の作った「北山文化」のようなものを自分も作り、義満のように隠居しながら政事に口出しができる立場になりたいと思っていたといわれます。
 
でも、息子の義尚とは不仲で、それは望めませんでした。
 
 
それで、「もういいや!」と思って、東山に引きこもったのでしょう。

 
 

おわりに

 

 
足利義政は、息子に将軍職を譲ってから、政治にはほとんど関わらず、芸術と文化の発展に集中していきます。
 
在位中は、全く政治に無関心で妻・日野富子のやりたい放題だったという印象が強いですが、実際には、完全に投げ出してはいませんでした。
 
職制の改革をして大名たちを整理しようとしたり、細川勝元や山名宗全の暴走をいさめようと、一応和平を模索しています。
 
でも、優柔不断なところが裏目に出て、戦乱を長引かせてしまいました。
 
また、領民の暮らしに関心がなく、大飢饉にもかかわらず、花見を楽しみ、造園を推し進めて無駄遣いを続けます。
 
 
政治的には、やはりダメダメ将軍ですね。
 
 
彼は、38歳で隠居してからは、ほとんど芸術家として生きました。
 
でも、そのおかげで、今につながる「和風文化」の基礎が、築かれたのでした。
 
義政には、意外な才能があったんだよとわかる、挽回記事はこちらです。
  ↓↓

 
足利義政は、政治はダメだけど和風の礎を築いた超一流芸術家だった!
 
 

↓【応仁の乱まとめ記事・完全版】↓

【応仁の乱」その後も含めて簡単にまとめた7つのポイント

 
 
 

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