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こんにちは。
 
今回は、銀閣寺で有名な足利義政について!
 
 
私にとって、彼はすごーく興味のある人物なのです。
なぜって?
 
 
それは、政治面ではほんとにダメなのに、芸術面ではすごい功績を残しているから、いえ、政治がダメで領民のことなんて一切考えないから、そこまで到達できた人だからです。
 
 
人間、自分の大好きなたった一つのことに邁進するのが一番ですよ。
 
 
彼は義満のようになりたかったのに、幕府の権威が急降下の時代に将軍になり、自分の生まれた使命を、全うできない恐れがあったのです。
 
 
でも、振り切って逃げて捨て去った!
引きこもり芸術オタク将軍のできあがりです。
 
 
室町幕府第8代将軍・足利義政のダメ将軍ぶりは、こちらに書いています。
   ↓
足利義政・「応仁の乱」の原因の1つを作った将軍の政治力は皆無だったの?
 
 
足利義政には、とびっきりの長所がありました。
 
 
彼は、素晴らしい芸術の理解者だったのです。
彼は身分の上下を問わずに、優れた芸術家を援助して、文化芸術の発展に努めました。
 
 
目利きの才能があったのですね。
 
 
領民が飢えていてもまーったく気にせず、贅沢な芸術活動をしてたので、甘やかされて育ったのだろうともいわれますが、私は、そうではないと思います。
 
 
彼にとっては、見ず知らずの他人の生死より、芸術のほうがずっとずっと価値があったのですよ、きっと。
 
 
だから、将軍、政治家としては落第なのです。
 
 
でも、芸術家ととらえると、話は別です。
彼は、一流の芸術家なのでした。

 
 

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「銀閣」は銀が貼られていない未完の建造物

 

 
義政は息子に将軍職を譲り、「応仁の乱」が終わると、東山に別荘を建てて、そこにこもって芸術活動に邁進していきます。
 
 
その別荘の一部が、今も観光客に人気の「銀閣」なのです。
 
 
銀閣は、1階(潮音閣)が「書院造り」で、2階(心空殿)が「仏殿風」という2層仕立ての建物です。義政は3代将軍義満を尊敬していたため、義満の「金閣」のような建築物を立てようとしたといわれます。
 
 
その建物は、表面に「銀箔」を貼る予定だったので、「銀閣」と呼ばれました。
でも、実際、銀箔が貼られることはなく、「銀閣」の完成を待たずに、義政は亡くなります。
 
 
私が若い頃は、修学旅行で京都にやって来た中高生が、「銀閣」を見て、「銀じゃな~い!」と言ったという笑い話を、聞きました。
 
 
今は情報が簡単に手に入るので、みんなどんな様子か知っているでしょうけど。
 
 
「金閣」を見てから「銀閣」に行ったら、そういう感想になるだろうなと思います。「金閣」は、その名のとおりピッカピカですからね。
 
 
でも、「銀閣」のほうが、ずっとずっと趣があるのです。
周りの庭園と合っていて、落ち着くのでした。
 
 
できれば、観光客だらけにならずに、閑散とした雰囲気のままとどめておいてほしかったなーと、ワガママだけど思ってしまいます。
 
 
あれは「銀」を貼らなかったために、「わびさび」感が、ぐっと出たのだと思います。もしかして、義政さんはわざと銀を貼らなかったんじゃないのと思うほどです。(資金不足だったというのが通説ですが)
 
 
でも、彼は、茶の湯や生け花、枯山水の庭園造りの後援者ですからね。
 
 
そう、義政は、日本の「わびさび文化」の元を作った人なのです。

 
 

今の「和室」が誕生した「東山文化」

 

 
義政のすごいところは、「和室」をほぼ完成させたところです!
 
 
最近、日本では「和室がない」という家やマンションがあるようですが、なーんてもったいない!
 
 
和室には、様々な美の工夫が見られます。
 
 
違い棚なんて、非対称美の結晶みたいですし、花瓶や掛け軸も、季節や気分によって趣向をこらすことができます。
 
 
ああ、いいなあ、でも、わが家には、ないんです。
 
 
和室はあるけれど、6畳と小さいので、床の間や棚がありません。
 
 
いつかほしいなと思います。
リフォームしようかしらん。
 
 
それぐらい、私は「和室」が好きです。
 
 
和室を自分の部屋にしているので、いまも座卓にパソコンを置いて、これを書いています。腰や首を痛めることもありませんよ。
 
 
もう10年以上このスタイルで、1日6時間以上座ってますから。
 
 
話を元に戻しますと・・・
 
 
「書院」というのは、もともと禅宗のお寺の中に作られた読書部屋のことでした。その造りを取り入れて建てようと思いついたのが、「書院造り」です。
 
 
「書院造り」は、はじめは将軍様や守護大名の住居に、用いられていました。
この書院造りの部屋の形が、今のお茶室、和室なのです。
 
 
部屋の床には畳を敷き、床の間や違い棚をつくって、ふすまや障子で、部屋を区切ります。そして、床の間には、掛け軸をかけて、花を生け、ふすまには絵が描かれました。
 
 
もう、完全な「和室」です。
 
 
掛け軸・生け花という「茶道」にも欠かせないものが、ここに揃います。
 

 

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茶道・華道・枯山水の庭園が完成する

 

 
室町時代には、中国から伝わった「禅宗」が流行ります。芸術もその影響を受けて、奥ゆかしさや静かな佇まいを重んじるものが、生まれました。
 
 
足利義政を中心に栄えたこの文化が、「東山文化」と呼ばれるものです。
 
 
義政さんの偉いところは、将軍というすごく身分の高い人なのに、優れた技術を持った人や芸術家は、身分の上下を問わず、どんどん意見を聞き入れ採用したというところです。
 
 
例えば、「日本庭園」を造る際には、善阿弥を援助しました。
 
 
また、「大和絵」では、狩野正信(狩野派)土佐光信(土佐派)を、「能楽」では音阿弥を取り上げました。
 
 
狩野正信は、安土桃山時代の様々なお城の内装を描いた「狩野派(かのうは)」の初代です。

 
 

おわりに

 

 
室町時代は、日本の歴史上、大きな変革の時代です。
 
 
応仁の乱の後、下剋上の世になり、それまでの公家を中心とした特権階級以外の人々が台頭するようになります。
 
 
そして、文化面では、現代につながる和風建築の基礎が築かれたのでした。
 
 
現代の食文化は江戸時代に始まったものが多いですが、住居や庭園は、この室町時代に作られたものが、たくさん残っているのです。
 
 
それは、この戦乱の時代にも関わらず、政治をかえりみないで芸術に散在した足利義政の成果なのだと思うと、歴史はつくづく面白いですね。
 
 
応仁の乱の原因の1つを作った将軍義政・政治力は皆無だったの?
 
 
 

↓【応仁の乱まとめ記事・完全版】↓

【応仁の乱」その後も含めて簡単にまとめた7つのポイント

 
 
 

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