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こんにちは。
 
「応仁の乱」の東西の大将は、とても対照的でおもしろいです。
 
彼らは、始めは結構仲良しだったのです。
 
親子ほど年が離れていたので、始めは年長の山名宗全が、若い細川勝元を盛り立てていました。勝元は、宗全の娘を正室に迎え、同盟を組んで畠山家に対抗していたのです。
 
そして、細川勝元は、文武両道で出自もよく、学識も高い人優れた知将・・・になるはずでした。
 
安定した時代に生まれていたら、彼は足利義政のように文化芸術の後援者として、もっと名声を残せたんじゃないかなあと思うのです。

 

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優れた策士だけど、途中でやる気がなくなった?

 

 
細川家は、管領の中でも特に血統がよく、代々「三管領」に選ばれる家柄です。
 
そんな由緒ある家に生まれた勝元は、13歳で父が亡くなり、家督を継ぎました。
管領に就任したのは、16歳です。
 
成人してすぐぐらいの若さですよ。大変そうです。
 
でも、この人は、かなりの切れ者で風流知識人でもありました。
ですから、もし、安定した世の中だったら、うまくいけば将軍の補佐をしながら幕府を盛り立てるフィクサーになって、芸術家たちのよき理解者になっていたかもしれません。
 
なんだか惜しいですね。
 
「応仁の乱」はいくつかの有力大名のお家争いの集合体のようなものでした。ですから、細川勝元は東軍の大将といっても、戦国武将のような求心力はなかったのです。それは、西軍の山名宗全も、同じでした。
 
勝元は、途中で禅や芸術への関心が強まって、争いを続けるのがめんどくさくなったきたようです。
 
無責任と言われそうですが、なにしろ11年もグダグダ続きましたからね。しかも、よその家の内輪もめばっかりで、世俗的なことにばっかり口出しするのが、嫌になったのかもしれません。
 
現に、一度、彼は西軍に和平交渉を持ちかけようと働きかけましたが、両軍の有力者から大反対にあい、うまくいかなかったのです。

 

公家的な趣味をたくさん極めた風流人

 

 
細川勝元は、いろんな趣味を持っていて、しかも、その多くがプロ級でした。
 
特に、和歌は若い頃から親んでいて、自邸で毎月歌会を開いて、連歌師たちと積極的に交流しました。他の人が主催する歌会にも、たくさん参加していたようですよ。本当に好きだったんですね。(当時は、まだ俳諧はできていません。)
 
そして、日明貿易に力を入れていたので、唐物や唐絵に精通して、審美眼を持っていました。また、日本の絵画にも親しんでいました。
 
芸術という共通の趣味を持っていたので、足利義政に気に入られていたというのもよく分かります。趣味の話ができるのは、楽しいですからね。

 

 

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武家らしいスポーツ系趣味もバッチリだった

 

 
一方、勝元は、体育会系の趣味も、満喫していたようです。
 
武芸の訓練にもなる鷹狩を好み、よく狩りに出かけました。
鷹狩は、主従でグループを組んで一緒に回るスタイルなので、今でいう接待ゴルフのような役割もあったと思われます。
 
また、犬追物と呼ばれる、鎌倉時代から始まった的当てスポーツも、好きだったそうです。これは、決められた馬場内でチームに分かれて騎馬で犬を追い、弓で射て点数を競うというものでした。
 
えーーーー? 犬に矢を射るなんて酷い!
 
と思われたあなた、私もそう思うのですが、これはもうある程度、昔の風習だったと納得するしかないのでしょう。
 
犬追物の矢は、一応、柔らかい素材で作られていて、当たっても犬を傷つけないように配慮されてはいました。でも、実際には、当たり所が悪かったということも多かったようです。また、亡くなった犬は、武士たちが食べたという説もありますよ。(・_・;)

 

料理の腕もよし!医学の知識も多く本を書いた!

 

 
細川勝元は、趣味の幅が広く、また、その多くを極めています。
それはもう、素直に、すごい人だなあと思います。
 
公家も顔負けの和歌や絵画の趣味を持ち、武家の大将らしくスポーツも得意、さらに、この人は、料理を作るのがうまく、食通でした。
 
とても豪奢な暮らしをしていたため舌が超えていて、淀川から取り寄せた鯉(こい)と他国の鯉料理とを見分けたという逸話が残っています。(『塵塚物語』)
 
当時は、漁業技術が貧弱だったので、内陸の京都で食べられる魚は限られていました。鯉は、魚料理で使われる代表的な食材で、勝元は鯉が大好きだったのです。「淀川の鯉は美味しい」と絶賛していたそうですよ。
 
そして、なぜか彼は医学にも強い関心があり、混乱する政情の中、1472年に、医学書『霊蘭集(れいらんしゅう)』を完成させています。
 
これは、和漢の医学書を調べて、項目ごとに整理し直し、わかりやすくまとめたものでした。
 
『霊蘭集』は、理論だけでなく、実際の治療に役立つ処置法も書かれています。
 
この頃には、もう勝元は、戦乱にあまり関心がなくなっていたのでしょう。
禅の修行に勤しんで、枯山水の庭で有名な「龍安寺」などを建てています。
 
「龍安寺」は、応仁の乱の戦火で、一度焼け落ちて、現存するのは、勝元の息子・政元が建て直したものです。
 
この息子の細川政元、知名度はいまひとつですが、すごくおもしろい人なんですよ。
 
本気で宙に浮く訓練をしていたとか、天狗になる修行をしていたとか、数々の伝説を残しています。父親以上の切れ者といわれていますが、女性に全く興味がなく、子孫を残しませんでした。それが仇となって、細川家の直流は、政元の代で途絶えてしまうのです。
 

 

おわりに


ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
 
「応仁の乱」の主役の一人、東軍大将・細川勝元は、44歳で亡くなります。
 
山名宗全が亡くなった2カ月後のことでした。
病死とも暗殺ともいわれていますが、混乱の世でしたので、解明されないでしょう。
 
「応仁の乱」を軸にして語ると、細川勝元は、政治手腕には長けていたけど、戦乱の中心人物で、乱を無駄に長引かせた1人という印象が強いです。
 
でも、彼が当時の一流の風流知識人だったのは間違いなく、そちらの成果が残せなかったのが残念だと思うのでした。

 
 

↓【応仁の乱まとめ記事・完全版】↓

【応仁の乱」その後も含めて簡単にまとめた7つのポイント

 

 

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