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こんにちは。
 
幕末の政治家・勝海舟は、「江戸城無血開城」の立役者の1人として有名です。
 
彼はかんしゃく持ちで、若い頃から晩年にいたるまで、結構敵が多かったといわれます。
 
幕末に活躍した人の中では長生きし、新政府で活躍した人材でもあります

 
今回は、そんな勝海舟の業績について、お伝えします。

 
 

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ペリー来航でチャンス到来

 

 
勝海舟(麟太郎)は、江戸生まれです。
 
生まれは幕府の御家人の家でしたが、生活は貧しかったようです。
彼は、剣術を学び、佐久間象山の私塾で、兵学などを学びました。
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⇒【関連記事】佐久間象山・暗殺された幕末の天才学者は吉田松陰の師
 
ペリーの黒船がやって来たとき、彼が幕府に出した意見書が、採用されることに決まりました。彼は、アメリカとの交渉に尽力し、遣米使節団の一員に選ばれたのです。
 
「咸臨丸」の艦長に選ばれた彼は、アメリカの先進的な科学技術に感銘を受け、帰国後、神戸に「海軍操練所」を創りました。

 
 

「咸臨丸」の役立たず艦長

 

 
勝海舟が、いまいち印象がよくないのは、「咸臨丸」であまり役に立たない艦長だったことですねー。
 
 
本当のところはどうか分かりませんが、伝わるところによると、勝海舟は、この船旅のほとんどを船酔い(拗ねていたという説も)で部屋に籠っていて、艦長とは名ばかりだったそうです。
 
 
「咸臨丸」といえば、あの福沢諭吉先生も乗っていた船ですよ!
 
 
「咸臨丸」には、木村芥舟という別の責任者(軍艦奉行)が乗っていました。福沢諭吉は、木村に頼んでこの船に乗っています。当時、日本からアメリカまで航海するのは不安だったので、木村はアメリカ海軍に協力を要請しました。
 
 
これに、勝海舟が、大反対するのです。
 
 
でも、木村は勝の反対を押し切って、アメリカ海軍の航海士を同行させました。
 
 
航海に出ると、勝海舟はずーっと船酔いで役立たずです。
「咸臨丸」の操縦は、アメリカ人の操縦士にまかせっぱなしだったそうですよ。
 
 
でも、この船旅は大嵐に見舞われたこともあり、ほとんどの日本人が船酔いでつぶれていたそうです。平気だったのは、通訳として同乗したジョン万次郎と、なぜか強い福沢諭吉ぐらいだったとか。
 
 
この航海が無事終えられたのは、ブルック大尉らアメリカ人の操縦士とジョン万次郎のおかげです。
 
 
また、艦内の雰囲気は険悪で、勝海舟は何度もブッちぎれて、太平洋のど真ん中でもう1人で帰ると、わめいていたそうです。
 
 
このとき同行していた福沢諭吉は、かなり腹が立ったらしく、その後もずーっと勝海舟を嫌っています。船酔いしなくてへっちゃらだった諭吉からすると、情けなく思えたのかもしれませんけど、やっぱり馬が合わあなかったのでしょう。
 
 
この2人の仲が悪かったのはよく知られていますが、私は生き方やスタンツが違うから仕方がないのかなとも思います。
 
 
福沢諭吉は、実業家であるだけでなく、超一流の学者です。
彼は、勝のように幕臣だったのに、変わり身早く新政府の要職につく者を軽蔑していました。
 
 
とにもかくにも、「咸臨丸」での勝海舟は、後世の評価が良くないのでした。

 
 

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海軍操練所創設と坂本龍馬との出会い

 

 
アメリカから帰国した勝海舟は、いろいろ学ぶことや気づきもあったようで、これからは、幕府に頼らず、全国から生まれを問わずに人材を集めようと考えます。
 
そして、神戸に創ったのが海軍操練所です。
 
そのころ、坂本龍馬が勝のもとへやって来ます。そして、龍馬は勝海舟の考えに圧倒されて、すぐに弟子入りしたのでした。
 
 
他にも様々な思想をもった優秀な人たちが、勝のもとに集まってきましたよ。
 
 
でも、1864年に「池田屋事件」が起こり、雲行きがあやしくなります。
困ったことに、襲撃された攘夷志士の中に、海軍操練所の望月亀弥太がいたのです。
 
 
その後、長州藩は「禁門の変」を起こし、朝敵になりました。このときの長州軍に海軍塾生の安岡金馬が参加していて、勝海舟は幕府に疎まれてしまったのです。
 
 
そして、とうとう海軍奉行を罷免され、神戸海軍操練所も閉鎖されることになりました。
 
 
その後、勝海舟は、当時まだ幕府側にいた西郷隆盛に、その意思を伝えました。
 
 
西郷隆盛からの勝海舟の評価は、非常に高かったです。
勝は坂本龍馬も西郷に託すことにしたのでしょうか。
 
 
これから後、坂本龍馬と薩摩藩は、懇意になっていきます。

 
 

西郷隆盛との江戸城無血開城

 

 
幕府軍は戦いに次々敗れ、徳川慶喜は追い詰められていきます。
そして、幕府はもう一度、勝海舟に交渉を任せることに決めたのでした。
 
 
勝海舟、46歳のときです。
彼は江戸を火の海にするのをなんとしても避けなければと思い、徹底抗戦を望む幕臣たちを封じ込めて、江戸城無血開城するために、官軍と交渉したのです。
 
 
官軍の司令官は、西郷隆盛でした。
西郷は、最後に戦いに勝利したという、決定的な結果がほしいと考えていました。
 
 
これは難しい交渉でした。勝は交渉が決裂した際には、慶喜をイギリスに亡命させる約束まで取り付けていました。
 
 
江戸城総攻撃の2日前に、勝海舟と西郷隆盛との交渉が始まります。といっても、実は、幕府側は、勝が会談する前に、綿密な事前交渉を持ちかけていたのです。
 
 
徳川慶喜からその交渉役に抜擢されたのが、山岡鉄舟でした。
山岡鉄舟は、文武両道で漢気のあるエピソードがたくさん残っている人です。
 
 
西郷は、初めて会った山岡鉄舟の真摯な態度に感心し、真剣に話し合います。そして、西郷から山岡に、7つの条件が出されたのです。
 
 
●徳川慶喜の身柄を備前藩預かりにする
●江戸城を明け渡す
●城内の家臣は向島で謹慎
●徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を処罰する
●暴動が激しい場合は官軍が鎮圧する
●武器の引き渡し
●軍艦の引き渡し
 
 
山岡鉄舟は、1つ目の要望のみ保留とし、後は受け入れると答えました。
江戸城無血開城は、そのような準備があった後になされたのでした。
 
 
ちなみに、後に西郷隆盛は、「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と、山岡鉄舟を高く評価しています。
 
 
勝海舟の一番の功績は、やはりこの「江戸城無血開城」です。そして、忘れてはならないのは、もう1人・山岡鉄舟という功労者がいたことです。

 

おわりに

 

 
勝海舟は、その後、新政府で活躍していきます。
 
 
福沢諭吉は、幕府を見捨てて新政府で数々の要職を歴任した勝海舟を、痛烈に批判しました。
 
 
でも、勝海舟は、その後ずっと新政府の中で尽力し、旧幕臣の就労の面倒もみていたと伝わります。
 
 
いろいろな考え方、生き方があるのだなと、感じました。(*´ω`)

 
 

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