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こんにちは。
 
 
今回は、幕末の薩摩藩で西郷隆盛や大久保利通を見出し取り上げた藩主・島津斉彬(なりあきら)について、お伝えします。
 
 
西郷隆盛が尊敬しまくっていたため、すごい名君だったという印象がありますが、実際はどうだったのでしょう?

 
 

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ひいおじいちゃんっ子だった?幼少期

 

 
島津斉彬(なりあきら)は1809年に薩摩藩主・島津斉興(なりおき)の長男として生まれました。母の弥姫(いよひめ)は、たいへんな才女で、家臣たちから「賢夫人」と呼ばれていたそうです。
 
 
一方、斉彬の曽祖父・島津重豪(しげひで)は蘭学を好んで、いわゆる外国かぶれの藩主でした。
 
 
重豪(しげひで)は、身分にかかわらず教育を受けさせ、薩摩藩全体の教育水準を引き上げたといわれます。でも、かなり贅沢な人で、生活費や蘭学の学問所の経費がかさみ、藩の財政を急速に悪化させてしまったのです。
 
 
斉彬(なりあきら)は、この曾祖父の重豪(しげひで)にたいへんかわいがられ、一緒にドイツ出身の医師・シーボルトに面会する機会も得たそうです。

 
 

父の島津斉興が次の藩主に就任



 
重豪の死後、その孫の斉興(斉彬の父)が藩主となりました。
 
 
彼は、すぐに緊迫していた藩の財政改革に取り組みます。そして、借金の期限の引き伸ばしや、砂糖の専売などの政策で、財政状況はどんどん良くなっていきました。
 
 
父・斉興は、息子の斉彬を藩主の座を継がせると、再び浪費をして財政危機に陥るのではないかと警戒しました。なんといっても、重豪のお気に入りで、かなり影響を受けていたようですからね。
 
 
そういうわけで、斉興は、なかなか息子に家督を譲らず、斉彬は40歳をすぎても後継ぎの立場のままでした。
 
 
父にちょっとうとまれていたという状況もあって、斉彬の立場を脅かそうとする一派が動き出します。

 
 

お由羅騒動

 

 
斉彬には久光という弟がいました。
久光は父・斉興の側室のお由羅(ゆら)の息子です。
 
 
このお由羅が斉彬を廃嫡させ、わが子・久光を島津の藩主にしたいという野心を抱いたのです。
 
 
斉彬の母・弥姫は、若い頃に亡くなっていました。
 
 
ですが、薩摩藩士の中には、斉彬こそが薩摩藩主になるべきだと考える者もたくさんいて、お家は2派に分裂し、お由羅や久光を暗殺しようという動きに発展していきました。
 
 
この暗殺計画をお由羅側が察知し、反対に斉彬側の首謀者13名が、切腹させられてしまったのです。その他にも、50名余りが遠島・謹慎などの処分を受けて、斉彬派の勢力は弱体化してしまいました。
 
 
この事件を「お由羅騒動」といいます。
 
 
斉彬、ピンチですよ。

 
 

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阿部正弘のおかげで薩摩藩主になれた

 

 
斉彬を擁立する藩士たちは、このままではまずいと思い、福岡藩主の黒田斉溥(なりひろ)に支援を求め、彼を通して幕閣の阿部正弘らに力添えを求めることに成功します。
 
 
阿部正弘は、当時の幕政でとても力のある人物でした。
 
 
彼は斉彬の才能を高く評価していたので、薩摩藩に働きかけました。それを受けて斉興は引退し、斉彬は、42歳にしてようやく薩摩藩主の地位に就くことができたのです。

 
 

藩内の融和に務め近代化を進める

 

 
斉彬は弟との家督争いで分裂しそうな藩内の秩序を取り戻すために、融和的な政策を実施しました。
 
 
藩政に対する意見の違う父・斉興を相談役として残し、父の時代からの重役たちを、そのままの地位にとどめたのです。
 
 
そして確執のある弟の久光にも友好的に接し、関係を改善していきます。島津を守るために敵対者を排斥せず、なんとかうまくやっていこうと努力したのです。その度量の広さは、曾祖父から受け継いだものかもしれませんね。
 
 
それから、彼は薩摩の近代工業化を促進し、さまざまな研究を進めます。
それらの研究開発事業は、「集成館事業」と呼ばれています。
研究は、多岐にわたりますよ。 
   ↓
・農作物の品種改良
・ガラスの製造(薩摩切子)
・ガス灯の設置
・蒸気船の製造
・汽車の研究
・溶鉱炉の設置
・小銃の製造
・写真術の研究(←趣味でもあった)
・電信機の設置

 
 

西郷隆盛・大久保利通らを重用する

 

 
斉彬は、身分に関わらずに有能な人材を発掘し、これはと思う人物を見つけると重用しました。
 
 
その最大の功績は、西郷隆盛らを見出したことでしょう。
 
 
あるとき、農政に関する意見書を藩に提出した西郷吉之助(後の隆盛)という家臣がいました。それに目をとおした斉彬は、西郷に強い関心を抱きます。
 
 
彼は身分が低く、お目通りがかなう地位ではなかったので、まず、江戸藩邸のお庭役方という庭の手入れをする係に任命し、会えるように計画したのです。
 
 
斉彬は西郷にあてた書簡を軒先に置いて、西郷がそれを片付けるために拾うという形で、文書でのやり取りをはじめました。そうして、彼は、西郷を直接教育することができたのです。身分社会というのは、いろいろ面倒くさいですね。
 
 
島津斉彬は、西洋文化を取り入れて島津の近代化を進め、身分に関わらずに有能な人物を取り上げる度量の広さがあったと分かります。
 
 
彼は、その後、九州にいながら、将軍家の跡継ぎ問題に口出しできる人脈も築いていったのです。
 
 
それについては、こちらにお伝えしています。!(^^)!
  ↓
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