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こんにちは。
 
今回は、歴史上の人物で、1.2の人気を争う坂本龍馬について、お伝えします。彼は、「明治政府の成立」に欠かせない重要人物ですよ。
 
 
坂本龍馬の人気は、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で火が付きました。
でも、あれはあくまで小説ですよ。かなりすごい人っぽく書いてます。
 
 
今回は、史実にそった坂本龍馬の一生を、簡単にお伝えします。
簡単年表は、この記事の一番下です♪
 
 

坂本龍馬は土佐藩(高知県)出身の武士だった

 

 
1836年、坂本龍馬は土佐藩の郷士(下級藩士)の家に生まれます。
土佐藩は藩士が上士(上級藩士)と郷士(下級藩士)の二層構造になってる、ちょっと変わった体制の藩でした。(呼び方は、あと数種類あります。)
 
 
そうなったのは、なんと270年前の「関ケ原の合戦」にさかのぼります。
 
 
土佐は「関ケ原の合戦」前は、長宗我部家(ちょうそかべけ)が治めていました。でも、長宗我部は合戦で西軍につき、負けてしまいます。
 
 
合戦の後、長宗我部は、徳川家康に土佐の領地を没収されてしまい、土佐は東軍の山内一豊の支配下に入ったのです。
 
 
でも、もともと長宗我部の下で一致団結していた一領具足の領民たちは、山内家の支配を嫌って、激しく抵抗しました。
 
 
その長宗我部の家臣の子孫が幕末時の「郷士」(下級藩士)で、山内家と共にやって来た家臣団の子孫が上士族(上級藩士)だったのです。
 
 
それで、藩士が二層構造になってしまったんですね。この2つの身分は、土佐では、はっきり区別されていました。
 
 
ちなみに、坂本龍馬は、下級藩士のほうでした。
 
 
でも、彼の実家はかなり裕福で、武士とはいえ、商売を行っていました。坂本龍馬が、商売がうまくて起業家になったのは、家庭環境の影響もあったのかもしれませんね。

 
 

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勝海舟との出会いと「海援隊」設立

 

 
坂本龍馬は、19歳のときに江戸へ行きます。名目は剣術修行のためでした。
この年は、1853年、ぺリーが黒船で日本にやって来た年でもあります。そのとき、龍馬は江戸にいたんですね。
 
 
彼は、この江戸で28歳のとき、脱藩して勝海舟の弟子になりました。
 
 
そして、造船や船の操縦法などを熱心に学び、勝海舟の師匠で西洋兵学の第一人者・佐久間象山にも会います。
 
 
龍馬は、佐久間象山と勝海舟の妹・お順の結婚の仲立ちをしたとも伝えられます。仲介の能力が、こんなところでも発揮されたのでしょうか。
 
 
航海術をバッチリ習得した彼は、31歳のとき、長崎で「亀山社中」という会社を作りました。
 
 
亀山社中は、日本で最初の「株式会社」といわれているんですよ。
この亀山社中が、後の「海援隊(かいえんたい)」になるのです。
 
 
「海援隊」は、坂本龍馬が中心になって作った「貿易結社」でした。今でも有名な海援隊ですが、その活動は、1865年から1868年までの、たった3年余りだったんです。
 
 
「海援隊」は貿易会社でしたが、私設海軍でもありました。そして、その活動の資金源は、薩摩藩などからの援助だったのです。それで、西郷隆盛とも親しくなったのでした。
 
 
「海援隊」は、中岡慎太郎が隊長だった「陸援隊」と併せて「翔天隊」と呼ばれることもあります。
 
 
龍馬は、この会社をとおして、武器や軍艦などの兵器を薩摩藩の名義で長州へ流す斡旋業を行っていました。そうするうちに、もともと犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩の両方の藩士と、話ができる間柄になっていったのです。

 
 

「薩長同盟」締結の功労者?

 

 
坂本龍馬の偉業は、なんといっても犬猿の仲だった薩摩と長州を仲直りさせ、「薩長同盟」を締結させたことと言われています。
 
これ、本当にたった一人の力でやってたら、すごい事ですよ~。でも、実際はちょっと違います。まったく気乗りのしなかった相手を龍馬の交渉術で取りまとめたというのは、言い過ぎのようです。
 
 
坂本龍馬の当時の立場は、薩摩側の使節のようなものでした。
少し乱暴に言っちゃうと、龍馬の会社・亀山社中は、薩摩藩のダミー会社のようなものだったのです。
 
 
また、そもそも薩長同盟を始めに言い出したのは、福岡藩士の月形洗蔵でした。
 
 
「え? 誰?」って思いませんでした?
この人、知名度低いですよね。
 
 
でも、維新直後は、偉人としてよく知られていた人物なんです。
 
 
『竜馬がゆく』で、かすんじゃった1人でしょうか。
 
 
その月形洗蔵の意志を継いだのが、龍馬とともに近江屋で暗殺される中岡慎太郎です。でも、中岡慎太郎は土佐を脱藩したあと長州にいたので、完全な中立的の立場には、なれなかったのです。
 
 
それで、中岡が薩長のどちらでもない土佐藩の坂本龍馬に相談して、龍馬がこれに加わったというのが、最近の有力説です。
 
 
当時は、すでに薩長同盟の気運が高まっていたので、龍馬がいなくてもいずれ同盟は結ばれたでしょう。でも、龍馬がいたことで早まったのは確かなのかもしれません。
 
 
とにもかくにも、1866年6月、ついに「薩長同盟」が締結したのでした。
 
 
薩摩の代表は西郷隆盛、長州の代表は桂小五郎でした。

 

 

「大政奉還」と「船中八策」

 

 
薩摩と長州が手を結び幕府と対峙したことで、幕府は倒幕の危機に陥ります。
 
 
土佐藩の山内家は幕府と縁が濃く、新体制は必要と思いながらも江戸幕府との戦いは避けたいと思っていました。
 
 
そんなとき龍馬が提案したのが、「大政奉還」です。
 
 
大政奉還というのは、将軍職を朝廷に返すということでした。
坂本龍馬は下級藩士だったため、藩主に直接言う事はできない立場でした。
 
 
それで、龍馬が相談できた上級藩士の後藤象二郎を介して土佐藩藩主に伝え、藩主から将軍・徳川慶喜に提案することになったのです。
 
 
徳川慶喜はこの案に応じて大政奉還を行い、薩摩藩や長州藩との全面戦争は避けられることになりました。
 
 
坂本龍馬は、その後、明治政府の基本方針として「船中八策」と呼ばれるものをまとめます。これは、その名のとおり、船の中で考えた8つの政策でした。
 
 
この基本方針が、後に明治政府の示した「五箇条の御誓文」としてまとめられたのでした。

 
 

おわりに


 
1867年、坂本龍馬は明治時代を迎える直前に暗殺されました。
 
 
彼の人気は、確かに『竜馬がゆく』の影響が大きいですが、もちろんそれだけではありません。
 
 
私が彼をカッコいいと思うのは、「五箇条の御誓文」の原案を出すほど政治について考えていたのに、政府の要人になる気がまったくなかったところです。
 
 
彼は「海援隊」を、世界に通用する会社に育てたかったんですよ。
そのために、なによりも先に航海術を学んだのです。日本は島国ですからね。
 
 
商売の途中で薩長の問題に関わりましたが、彼はあくまで「実業家」だったのです。

 
 

坂本龍馬の簡単な年表


坂本龍馬の一生を簡単年表にまとめました。
 
●1835年(0歳)
土佐国(高知県)で誕生。
 
●1853年(19歳)
剣術修行のため江戸に行き、北辰一刀流の千葉道場に入門。
ベリーの「黒船」来航。
 
●1861年(27歳)
武市半平太の「土佐勤王党」に入党。
 
●1862年(28歳)
土佐藩を脱藩。
江戸へ行き勝海舟の弟子に。
 
●1863年(29歳)
脱藩の罪を許される。
「神戸海軍操練所」の塾頭就任。
帰国の命令に従わず、再び脱藩。
 
●1865年(31歳)
薩摩藩の援助で、長崎に「亀山社中」を設立。
 
●1866年(32歳)
薩摩藩と長州藩の仲立ちをし「薩長同盟」が締結。
寺田屋で幕府の役人に襲撃されるが難を逃れる。
 
●1867年(33歳)
土佐藩・後藤象二郎と会談し「大政奉還」を提唱。
「船中八策」を考える。
大政奉還後、「新官制案」「新政府綱領八策」を作る。
「亀山社中」を「海援隊」と改名し隊長に。
 
11月15日、死没。
京都近江屋で刺客の襲撃を受け暗殺。

 
 

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