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頭の中が、まだまだ源平なので、今回は例の兄弟・源頼朝・義経の出会いについて、お伝えします。
 
 
彼らは兄弟とはいえ、もともと父の義朝「平治の乱」平清盛に敗れたとき、頼朝は14歳、義経は2歳で、会ったことはありません。
 
 
彼らは10歳以上年の離れた兄弟です。
 
 
そして、育ちも全然違います。兄の頼朝は東国で捕らわれの身でしたが、弟・義経は京の都の北・鞍馬寺に預けられていました。
 
 
そんな2人が初めてお互いを見たのは、「富士川の合戦」の後だったのです。

 
 

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源頼朝(佐藤信義)VS平維盛の戦い

 

 
1180年、以仁王の平氏追討令に応じるかたちで源頼政が挙兵し、「源平の合戦」が始まります。
 
 
鵺退治で有名な源頼政の記事はこちらにあります。合わせてどうぞ♪

     ↓


 
 
「富士川の戦い」は、1180年10月に起こった源頼朝率いる源氏と平維盛率いる平氏の戦いでした。
 
 
でも、直接、駿河国を攻略して平維盛と戦った源氏側の武将は、武田信義でした。あの武田信玄につながる甲斐源氏です。
 
 
一方、平氏側の大将は平維盛です。維盛は平重盛の息子で、たいへん容姿端麗な美貌の貴公子だったと評されています。
 
 
祝賀で「青海波」を舞った姿があまりにも美しく、「桜梅少将」なんて呼ばれていたのだとか。光源氏みたいですね。
 
 
やたらと平氏に美人が多いのは、気のせいか?
いえ、多分、違います。
 
 
貴族的でたおやかな美しい人たち(平氏)が、野蛮な坂東武士に滅ぼされちゃったんだよーというのが、『平家物語』の根底にあります、多分。
 
 
そんなたおやかな貴人だった平維盛が、戦上手なはずがありません。というか、多分、戦なんてしたこともないし、したくなかった人ですよ。
 
 
それなのに大将に任命されて、彼は「富士川の戦い」「倶利伽羅峠の戦い」と続けて負けまくってしまいます。情けないというよりなんだか気の毒な人なのです。

 

 

水鳥の羽音を夜襲と勘違いしたのはウソ?

 

 
「富士川の戦い」では、平氏の軍は「水鳥の羽音」を源氏の夜襲と勘違いして、あわてふためいて逃げ帰ったといわれます。源氏は、ほとんど不戦勝?
 
 
まさかまさか、これはあくまで『平家物語』のストーリーです。フィクションですよ。いくらなんてもこの描写では、維盛が気の毒です。
 
 
この戦いは、本当は、武田信義率いる甲斐源氏の奇襲攻撃で、平氏の軍が敗退したといわれます。平氏の軍勢は、寄せ集めの軍だった上に、兵糧がなかなか集まらず、士気が低下しまくっていました。
 
 
大将だったとはいえ、平維盛だけの責任とは言えないと思います。
 
 
とにかく、平氏方の士気がガタ落ちだったのもあり、源氏の奇襲は大成功を治めたのでした。

 
 

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感動の兄弟の対面は体裁?

 

 
源義経は、16歳のとき京から奥州藤原氏の元に向かい、そこに身を寄せていました。
 
 
彼は、兄の頼朝の挙兵を平泉で聞き、何としても兄の力になりたいと、藤原秀衡の反対を押し切ってはせ参じたそうです。
 
 
「富士川の戦い」の後、義経は兄に会うためにはるばる黄瀬川河畔の頼朝宿所まで来ましたが、警護をしていた土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実らに怪しい奴と留め置かれてしまいました。
 
 
でも、その一件を聞いた頼朝が「それはおそらく九郎(義経)にちがいない、顔が見たい。早く連れてこい。」と言い、兄弟の感動の対面がかなったのです。
 
 
そして、2人は「力を合わせて平氏を滅ぼそうぞ!」と固く誓い合ったのでした。
 
 
・・・というのは、またまた『平家物語』のお話です。
 
 
体面したのは確かでしょうけど、頼朝から見ると、義経はかなり厄介な存在です。
 
 
まずは、どちらも源氏の棟梁の正当性を持っていること、それはつまり、後々ライバルになる可能性が大きかったということです。
 
 
そして、頼朝は藤原秀衡佐竹隆義に、隙を見せると攻められる恐れがあると警戒していました。義経は、その藤原秀衡の元から来たのです。
 
 
バックに巨大勢力・奥州藤原氏がついているので無下にはできないし、かといって、もちろん手放しで喜べるもありませんから。
 
 
微妙ですね。(-_-;)

 
 


 

【源平の争乱のまとめ記事】
 

「源平合戦」の流れは『平家物語』を読むとわかりやすいよ!

 
 

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