この記事を読むのに必要な時間は約 11 分です。


 
「闇の勢力」とか「影の実力者」なんて言葉を聞くと、なんだかかっこよく感じませんか?
 
でも、同時に哀愁も感じます。
 
戦国時代に暗躍した「忍者」は、正史にあまり登場しないので、謎に満ちていますね。そこがまた、いいんですけどね^^♪
 
忍者と聞いて思い浮かぶのは・・・
 
手裏剣を使ったり足音なく忍び寄ったりするとか
変装の名人や睡眠術師がいたとか
伊賀忍者と甲賀忍者は敵対していたとか
服部半蔵の名前は知ってるよとか
 
こんな感じでしょうか。
 
忍者は、全国各地にいたようですが、今回は、あなたもよく知る「伊賀」と「甲賀」の忍者とその違いを紹介します。

 

スポンサーリンク

忍者を初めて使ったのは聖徳太子?

 
忍者は、日本発祥といわれますが、インドや中国が発祥という説もあります。
 
日本で初めて忍者を使ったのは厩戸王(聖徳太子)だったという、言い伝えが残っていますよ。
 
でも、これは日本書紀(正史)には載っていないので、確証はありません。
現存する忍者の伝書の多くは、江戸時代に書かれたものなのです。
 
それ以前は、術の多くが「秘伝」だったので、文書化されず、口伝で伝えられていたため、なかなか表舞台に出なかったのですね。
 
忍者は、戦時には傭兵として戦に参戦することが多かったので、戦国時代に大活躍します。
このころ、戦国大名に仕えた伊賀甲賀の忍者は、今もとても有名ですね。
 
伊賀と甲賀は、それぞれ三重県と滋賀県の間の山間部に位置し、山一つ隔てた場所に存在していました。
 
よく敵対関係にあると思われますが、実際は、どうだったのでしょう?

 

伊賀忍者

 

 
伊賀忍者といえば・・・
 
和田竜の小説「忍びの国」が、2017年夏に映画化されます。
歴史小説の作家としては、すごく文章が読みやすいので、おススメですよ!
 
ちなみに「忍びの国」は、「天正伊賀の乱」という伊賀(伊賀忍者)と伊勢(織田信雄)の戦いを描いたものです。織田信雄というのは、信長のあまりできのよくない次男です。

 

【関連記事】

織田信長の子供は何人!?最愛の女性・生駒吉乃とはどんな人なの?

 

伊賀忍者の組織

 
伊賀忍者の里は、その名の通り、三重県伊賀市の盆地にありました。
 
「忍びの国」では、伊賀の忍者は、自分の利益のためなら他人の生死はどうでもよい、銭のためならなんでもする「ひとでなし」の集団だと書かれています。
 
その原因は、伊賀の「上忍」「下忍」を道具のように扱っていた組織の風習にありました。
 
伊賀の共同体は、いくつかの「上忍」と呼ばれる有力者が、権力を独占していたのです。
中でも服部氏・百地氏・藤林氏は、「伊賀上忍三家」といい、大きな決定権を持っていました。
 
戦国時代には、大名などから依頼があれば、傭兵として「下忍」を派遣するという形をとっていました。
 
「下忍」は、普段は農耕にいそしむ、小作人のような労働者です。「下忍」は、里を勝手に出ることを許されず(抜け忍禁止)、術を体得するために、幼少期から厳しい訓練が課されました。
 
複数の大名に仕えさせるので、戦で両軍から要請があったときは、両方の依頼にそって「下忍」を派遣しました。同じ里の「下忍」が敵同士になってもおかまいなしです。すごくビジネスライクな割り切り方ですね。仲間意識はかなり薄かったというか、なかったのかもしれません。でも、雇い主からの信用は、高かったでしょう。

 

スポンサーリンク

 

伊賀忍者の忍術

 

 
忍者と聞いて、あなたが今思い浮かべたもの、その姿は、おそらく伊賀忍者にもっとも近いでしょう! それだけ、伊賀の忍者は一般に浸透しています。
 
伊賀忍者は、厳しい修行をして「技」を体得していきます。
得意技は、ズバリ「呪術」「火術」でした。
 
忍者が両手で印を結んで呪文を唱えるシーンを、映画やアニメで見たことはありませんか?
 
あれは「九字護身法」などと呼ばれる伊賀忍術です。
伊賀忍者は、手品を使って人心を惑わせたり、催眠術を使ったりする、かなり胡散臭い技を得意としていました。
 
また、伊賀忍者は、「火」の扱いに長けていたことでも知られています。亡命者などから、火薬の調合に関する知識を得て、火の性質に精通していたのです。
 
いわゆる「火遁の術」が得意で、「火薬玉」を爆発させて姿を消す技を使いました。
「火薬玉」って、忍者が見つかって逃げるときの、お約束のような退却方法ですね。(*‘∀‘)
 
伊賀の里は、「第二次天正伊賀の乱」で織田信長と戦い、壊滅的な被害を受けます。(忍者なので、落ちのびた者も多かったようですが。)
 
その後、かなり里の力は衰えましたが、「本能寺の変」の際、堺にいた徳川家康を三河まで護送するという仕事で、徳川家との縁ができます。家康の「伊賀越え」のときですね。そのとき活躍したのが、上忍三家の末裔・服部半蔵でした。
 
このとき、半蔵の呼びかけで300人余りの忍者が駆けつけ、家康は無事に三河に帰ることができました。
 
そして、この一件以来、家康 は 服部半蔵 を忍軍の頭領に任命して、多くの忍者を雇うようになったのです。
 
伊賀忍者は徳川家康が天下を取る前から徳川氏に仕えていたので、当時、天下人だった豊臣氏に仕えていた甲賀と敵対関係の任務につくことも多かったようです。
 
このことから、伊賀VS甲賀の図式が生まれたのでしょうね。
 
でも、実際には、どちらも「雇用主」の依頼に従っていたにすぎません。
伊賀と甲賀は、普段はそれなりの協調関係を保っていたようですよ。
 
伊賀忍者は、その後、江戸幕府と、伊賀地方の領主・藤堂家に仕えることになりました。

 

甲賀忍者


 
「甲賀の里」は、今の滋賀県甲賀市、湖南市にありました。
 
伊賀に比べて知名度が低いですね。
甲賀は伊賀よりも少し開けた土地にあったため、外部からの人の出入りがありました。

 

甲賀忍者の組織

 
甲賀忍者たちは、普段は農業活動をしたり、行商をしながら各地の情報を探る諜報活動をしていて、いったん、指令が下ると、戦場で工作活動に取り組みました。
 
「惣」と呼ばれる共同体組織があり、集落内の豪族の立場は対等に近かったようです。そして、意思決定は、多数決による合議制でした。
 
この時代には珍しい、民主主義的な組織運営だったのです。
 
甲賀忍者は、もともと佐々木六角氏の下で働く地侍でした。
ですから、傭兵というよりは、1つの大名の元で働くことが多かったのです。
 
伊賀と違い、里から抜ける(抜け忍)のも自由な、風通しの良い組織でした。
六角氏の後、織田氏に仕え、そのまま天下を取った豊臣氏、徳川氏に仕えます。

 

甲賀忍者の忍術

 

 
甲賀忍者の特技は、「毒薬」を使った術と、「手妻」でした。
 
「手妻」というのは、手品のように素早く手を動かして人心を惑わす術です。
「薬」の扱いに長けていたのは、外部との交流が比較的多かったからといわれます。ですから、行商として活動するときは、「薬売り」をすることが多かったようです。
 
甲賀市には、今もその名残として、製薬会社がたくさんあります。
 
伊賀が「第二次天正伊賀の乱」で壊滅的打撃を受けたのに対し、甲賀は、織田信長とは穏やかな関係を築きました。
 
その後、豊臣氏、徳川氏と仕える主を変えていきますが、江戸時代にはかなり衰退します。

 

まとめ

 

 
★ 伊賀と甲賀の関係
 
● 伊賀と甲賀は、三重と滋賀にあり、山一つ隔てて隣り合っていた。
● 普段は、協調関係を築いていたので、里同士が敵対していたわけではない
● 依頼者の意向に従う傭兵業だったので、職務上、敵対することはあった
 
★伊賀忍者の特徴
 
● 伊賀の里は、三重県伊賀市
● 呪術・火術に優れていた
● 伊賀は、上忍が下忍を従えた厳しい身分社会だった
● もともと仕える大名を持たない傭兵家業が主だった
● 伊賀の里は、織田信長に敗れ、壊滅的な被害を受ける
● 伊賀忍者は、徳川家康の「伊賀越え」を護衛し、徳川家に仕えるようになった
 
★ 甲賀忍者の特徴
 
● 甲賀の里は、滋賀県甲賀市
● 手妻と毒薬を使う術が優れていた
● 多数決で議決する民主主義的な集落だった
● 六角氏→織田氏→豊臣氏→徳川氏と天下をとった大名に仕えた
 
  
私たちが抱く忍者のイメージは、伊賀忍者にもっとも近いですよ。(*’▽’)

  

スポンサーリンク