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こんにちは。
 
今回は、前回お伝えした⇒「冨士川の戦い」の敗者・平維盛について、お伝えします。
 
「正史」と呼ばれるものは、たいてい勝者側が残したものですね。
だからこそ、歴史は敗者の視点から考えると面白いです。
 
それが、「美貌の貴公子」ともなれば、なおのこと♥
 
 
平氏滅亡のきっかけを作った残念イケメン、顔だけの無能な大将などと思われがちな維盛なのですが、私はすごく同情してしまうのです。
 
 
確かに連敗してますが、「富士川の戦い」の後の「倶利伽羅峠の戦い」なんて、相手があのガテン系オラオラ大将の木曽義仲ですよ。
 
 
ほんと、気の毒としかいいようがありません。

 
 

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舞の名手だった美貌の貴公子

 

 
平維盛は、平清盛の孫で、平重盛の息子として平家一門として生まれました。
たいそうな美男子だったそうで、「美貌の貴公子」と称されます。
 
 
1176年に行われた後白河法皇50歳の祝賀で、平維盛は、烏帽子に桜と梅の枝を挿して「青海波」を舞いました。その舞姿は、ため息が出るほど美しく、それ以来、彼は「桜梅少将」と呼ばれたのだそうです。
 
 
そのことを、藤原 隆房が、『安元御賀日記』(あんげんおんがのにっき)に書き残しています。
 
 
また、建礼門院右京大夫は、「今昔見る中に、ためしもなき(美貌)」と書き、その姿を光源氏にたとえています(←文学女子らしいたとえ方)。
 
  
そういえば、『源氏物語』の「紅葉賀」で、若き光源氏がライバル&親友の頭中将と共に「青海波」を舞うシーンがありますね。すごく美しいワンシーンです♪
 
    
また他にも、九条兼実が、「容顔美麗、尤も歎美するに足る」と評しています。兼実は、五摂家・九条家の祖で平氏を嫌っていた人です。
 
 
これだけ、いろんな立場の人の複数証言があるということは、おそらく彼の美貌説は真実だったのでしょう。
 
 
当時の美は容姿はもちろんのこと、立居振舞や教養、芸術的素養なども含まれていました。
 
 
こんな時代に生まれなければ、また、武家ではなく本当の貴族(公家)に生まれていたなら、自分の持前の長所を発揮できたかもしれません。

 
 

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平氏の都落ち

 

 
「倶利伽羅峠の戦い」で、木曽義仲にボコボコに負かされた後、1183年7月に平氏はとうとう都落ちします。
 
 
平維盛は、妻と子供たちを京に残して都落ちしました。
 
 
彼は、妻の行く末を案じて、さめざめと涙で袖を濡らしながら、もし自分に何かあったら、遠慮なく再婚するよう言い残しました。そして、泣きながら連れて行ってくださいと願う妻子を振り切って、馬で去っていったのです。(『平家物語』より)
 
 
平氏の武将たちは、妻子を同行させた人が多かったのですが、平維盛は残して一人で去っていったのです。
 
 
連敗した彼は、今後の平氏の行く末を、まったく楽観視できなかったのかもしれません。

 
 

那智(和歌山)での謎の最期

 

 
源氏に追われて、平氏は西へ西へと敗走していきました。
 
 
維盛は、なぜか「一ノ谷の戦い」前後の1182年2月に、熊野へ援軍を求めるために、密かに陣中から逃亡したそうです。
 
 
『平家物語』によると、その後、彼は高野山に入って出家し、熊野三山を参詣して3月末には、船で那智の沖の山成島に渡りました。
 
 
そして、松の木に清盛・重盛(祖父と父の名)と自らの名籍を書き付けてから、沖に漕ぎだして入水自殺(補陀落渡海)したといわれます。享年27歳でした。(異説あり)
 
 
どのような経緯なのかは、よく伝わっていませんが、その訃報は、確かに京の都にも届きました。
 
 
親交のあった建礼門院右京太夫が、彼の死を悼んで、歌を残しているのです。
 
 
「春の花の 色によそへし おもかげの むなしき波の したにくちぬる」
「かなしくも かゝるうきめを み熊野の 浦わの波に 身しづめける」

『建礼門院右京大夫集』より
 
 
1つ目の歌は、春の日に舞った「青海波」の波と、身を投げた海の波を、切なく対照的に表しています。
 
 
この世の春を満喫していた時からほんの数年で、これだけ平家一門の行く末は変わってしまったのです。
 
 
しみじみ、諸行無常だなあと思うのでした。

 


 

 
 

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