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こんにちは。
 
 
とうとうラスト、「西郷どん」(下巻)のレビューいきます。
 
 
最期は、やっぱり涙です。このラストがあるからこそ、薩摩の人々にとって西郷隆盛は特別な人なのでしょう。
 
 
激動の幕末、明治新政府ができ、天皇が東京へ、政治の中心も京から東京へと移っていきます。
 
 
かつて、貧しい下級士族だった大久保たち薩摩や長州の藩士は、金と権力を手に入れ、ぜいたくな暮らしをし、欧米の「石と鉄の文化」に憧れるようになります。
 
 
そんな風潮のなかで、取り残された士族たちは貧困にあえぎ、不満を募らせていきます。
 
 
勝者が敗者に、友が敵に、人の世の無常が切ないラストでした。

 
 

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薩長同盟・大政奉還と龍馬の死

 

 
政局は、目まぐるしく変わっていきます。
 
 
この辺りは、数か月ごとに新い事が起こり、それがまた大事なことばばかりなので、事実を描き切るだけでも大変です。小説として取捨選択するのが、難しかったでしょう。
 
 
朝廷が「第二次長州征伐」を決めた頃、京都で吉之助(西郷隆盛)はようやく木戸孝允(桂小五郎)と面会します。
 
 
でも、せっかく会ったのに、彼らは10日間もにらみ合ったまま、話は進展しません。1月20日、坂本龍馬が顔を出して「いったいどういうことぜよ」と説得し、翌21日、小松帯刀が借りていた近衛家別邸で、坂本龍馬立ち合いのもと、「薩長同盟」が締結されました。
 
 
その後、彼ら(吉之助、小松帯刀、桂久武、中岡慎太郎、坂本龍馬ら)は、船に乗り薩摩に向かいました。
 
 
龍馬は妻のお龍も連れています。これが俗に言われる、日本初の「はにーむーん」(新婚旅行)です。お龍とけんかして、龍馬が泣いて侘びるというくだりも書かれています。
 
 
龍馬は、つい最近、寺田屋で襲撃され、京にいては危ないので、みなで霧島の温泉に湯治に出かけることにしたのです。
 
 
その後、将軍・徳川家茂が、大坂で病死し、「第二次長州征伐」は、中止になりました。次の将軍、徳川慶喜は、1867年、10月にとうとう大政を奉還します。
 
 
その1カ月あまり後、坂本龍馬と中岡慎太郎が、京都・近江屋で惨殺されました。
 
 
1868年、1月には戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)が勃発しました。錦の御旗を掲げた薩長連合軍と幕府軍の戦いは、薩長軍が優勢で、江戸が火の海になる危険性が高まりました。
 
 
それを防ぐために、幕府側は山岡鉄舟を吉之助の元に送り、吉之助と勝海舟の会談にこぎつけます。
 
 
山岡鉄舟のことがしっかり描かれていてうれしかったです。彼は、一刀流の使い手で、かなり肝の据わった人物です。彼が先に吉之助と条件のすり合わせをしていたからこそ、勝海舟との会談はスムーズに進んだのでした。
 
 
「江戸城無血開城」がなされましたが、新政府内には、江戸で徳川と徹底的に戦わなかったこと吉之助を、非難する声が高まりました。
 
 
それに嫌気をさして、吉之助は、早々に引退しようと決意します。

 
 

明治天皇と吉之助

 

 
新しい時代の日本の統治者は、将軍ではなく17歳の天皇です。
その体制を作り上げたのは、岩倉具視大久保利通でした。
 
 
しかし、幕府の要人たちは、こぞって岩倉使節団に加わり、1年以上も留守にすることになりました。大久保利通木戸孝允も、村田新八もヨーロッパ旅行です。
 
 
吉之助は、20歳になった明治天皇と政府を任されることになりました。
 
 
聡明な天皇に、吉之助は日本と世界について、遠い欧州ばかり見ずに、近隣のアジアの国々に目を向ける事など、自分の考えを話しました。
 
 
明治天皇は、吉之助を慕い、いつしか「西翁(さいおう)」と呼ぶようになっていました。

 
 

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士族の不満が爆発し西南戦争へ

 

 
政府のやり方に嫌気がさし、吉之助は薩摩に戻ります。彼は朝鮮への出兵には反対していたはずなのに、いつのまにか「征韓論」に敗れて下野したことになっていました。
 
 
彼は、ただ1人の農民のようにひっそり暮らしたかっただけなのに、多くの有能な若者が、彼を追って薩摩に戻ってきました。
 
 
幼い頃から吉之助を慕っていた、同じ郷中出身の村田新八もその1人です。
 
 
新政府で活躍している一部の者は、西洋風の屋敷を建て、江戸の花街の女性を妾や妻にして、ぜいたくな暮らしをしています。
 
 
その一方で、命をかけて戦った多くの武士は、困窮した生活を送り、不満が今にも爆発しそうでした。
 
 
やがてその不平不満のうねりが、日本をおおうようになっていきます。
 
 
熊本の「新風連の乱」、福岡の「秋月の乱」、山口の「萩の乱」。
各地で士族の反乱がおこり、西郷隆盛はいつ起つのかと、世間の人々は吉之助の動向に注目するようになりました。
 
 
1877年、1月29日、吉之助の学校の生徒が、陸軍省の火薬庫を襲ったのがきっかけで、西南戦争が起こります。
 
 
吉之助は、けっして戦いを望んでいませんでした。
でも、彼は、もう運命に身を任せる覚悟をしていたのです。
 
 
「この身はおはんたちに預けしもんそ」
 
 
この戦争に、この物語の語り手でもある息子・菊次郎も参加しました。菊次郎は、戦いの中で敵の銃弾を右足に受け、野戦病院へ運ばれ片足を切断しました。
 
 
薩摩の軍は、熊本城、田原坂で政府軍に敗れ、8月16日、とうとう吉之助は解軍宣言を出しました。
 
 
「降伏するもんは降伏し、死にたいもんは死にやんせ。みな自分の欲するところに従っとじゃ。」
 
 
そして、吉之助は、軍服を脱ぎ、かわいがっていた2匹の犬を放ちました。
その後、最期のお別れを言いに、菊次郎の元へやって来て、糸の持たせたまっさらの白いふんどしを手渡しました。
 
 
これを「白旗替わりにしろ」という意味です。
 
 
そうして、吉之助は、その2週間後に鹿児島にたどりつき、「もうここらでよか」と、別府晋介に介錯を頼んで果てました。

 
 

最後の感想

 

 
江戸から明治へ、「区切りにいるもんは死ななくてはならん」という言葉が、胸に響きます。
 
 
欧米の帝国主義列強から日本の独立を死守するために、この時代、多くの人たちが命をかけて戦いました。
 
 
薩摩も長州も土佐も幕府も、すべてが「日本」のために、本気で知恵を絞ったのです。そして、実際、この節目の時期に多くの尊い命が消えていきました。
 
 
吉之助の幼なじみで最後は敵という立場になってしまった大久保利通も、西南戦争終結の翌年、暗殺されました。そのとき、彼のふところには、吉之助からの手紙が2通あったといわれています。
 
 
日本は、世界でもっとも長く続く単一王朝の国家です。
 
 
幕末から150年の区切りの年に、今こそ日本は、欧米のマネごとではない「真の日本らしさ」を武器に、世界と渡り合うことが必要なのだと思います。
 
 
いろいろ考えさせられるおもしろい小説でした。
幕末の一連の流れがさらっと分かりやすく書かれているので、おすすめです。

 

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他の巻のネタバレレビューはこちらです。
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