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こんにちは。
 
 
薩摩の調所広郷(ずしょひろさと)といえば、歴史ドラマでは、たいていヒール役のシブいおじ様風で登場しますね。
 
 
2018年大河の「西郷どん」で調所広郷を演じる竜雷太さんは、インタビューで「第三回で、見事に死にます」と言ってましたよ。
「薩摩が維新に打って出られたというのは、調所のおかげもあると聞いております」とも言っておられます。私もその通りだと思いますよー!
 
 
彼は、商人から借金を踏み倒し、南の島民から地獄のような税の取り立てをしたといわれる人です。
 
 
でも、彼が汚れ役に徹したおかげで、薩摩藩は財政破綻を免れ、立て直すことができたのです。
 
 
薩摩藩にとっては、功労者でもあったと思います。なぜなら、彼は、私利私欲のみに動いていた人とは、思えないからです。
 
 
いつか罰せられることを覚悟の上で泥をかぶり、藩主に危害が及ばないように、最期は自害しています。こういう役回りをあえて引き受ける人って、すごいなと思うのです。

 
 

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借金500万両の薩摩藩

 

 
江戸末期の薩摩藩の財政は、実に、借金が500万両もあったといわれます。1両5万円換算にして、2,500億円の借金ですよ!
 
 
ちなみに、当時の薩摩藩の1年の収入が13万両で、支出は19万8千両だったそうです。
 
 
家計簿をつけられない私にでも分かりますよ。
このままでは、年々赤字額がふくらんでいきますね。
 
 
すでに、藩士たちへの給料も、十分に支払えないありさまでした。
このままでは、財政破綻へまっしぐらです。

 
 

島津重豪に無理な財政改革を迫られる

 
【出版元】https://ja.wikipedia.org/wiki/調所広郷
 
そんなとき、当時、隠居しながらもまだ実権を握っていた島津重豪が、ある男に財政改革を命じます。その任された男が、調所広郷(ずしょひろさと)でした。
 
 
島津重豪といえば、島津斉彬をめちゃくちゃかわいがっていたという曾祖父ですよ。本人はすごい外国かぶれで(蘭癖)、散々、藩のお金を無駄遣いしていたといわれます。
 
 
斉彬のパパ・斉興が、なかなか斉彬に藩主の座を明け渡さなかったのは、斉彬がこの曾祖父の「蘭癖」の影響を受けていたというのが1つの理由です。再び財政難に陥ることを、懸念したのです。
 
 
そんな島津重豪から調所への指示は「500万両の借金をすべて無くして、なおかつ、50万両の準備金を作ること」でした。
 
 
「いや、それ、無理ですから・・・」って言いたかったでしょうね。
でも、こんな時代の主従関係なので、言えるわけがありません。
 
 
調所広郷は、最下層の家格の武士出身で、調所家の養子になったところを重豪に見いだされて、抜擢された人です。
 
 
そのせいか、あまり武士らしくない商売人っぽい考え方のできる人でした。彼が借金返済とお金稼ぎのためにとった政策は、とんでもないものだったのです。

 
 

借金500万両は、ほぼ踏み倒し

 

 
500万両もの借金をしていた相手は、主に大坂などの商人です。
 
 
彼らに向かって彼が宣言したのがこちら。
「借金は、無利子で250年ローンで返済する」
 
 
「ち、ちょっと待ったー!」と言いたかったでしょうね、商人たち。
 
 
250年間って、償還期限は2086年ですよ。完済まで、あとまだ70年近くありますよー!
 
 
「これって踏み倒しじゃん」と思いますが、きちんと決められた額は、毎年返し続けていたようです。だた、明治新政府の廃藩置県で、1873年に「免責」になったので、結局、商人にとっては踏み倒しでした。
 
 
実際、これの影響で、廃業に追い込まれた商人もいたようです。
 
 
でも、代わりに「黒砂糖の専売」や「清国・琉球との貿易」の優先などを与えたので、なんとか多くの商人たちを懐柔できたもようです。
 
 
これが、悪名高い「薩摩の借金踏み倒し」とよばれるものです。

 
 

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重農主義から重商主義へ転換

 

 
調所広郷のすごいところは、農業中心で行き詰っていた薩摩藩の経済を商業中心に切り替えたところです。
 
 
彼が目をつけたのは、奄美大島など南の島でとれる黒砂糖ウコンと、地の利をいかした清・琉球との密貿易でした。

 
 

(1)黒砂糖の専売

 

 
調所がお金を作るために目を付けたのは、商品として高い価値のある薩摩最大の特産品・黒砂糖でした。
 
 
黒砂糖は、鹿児島の南にある奄美大島・徳之島・喜界島でとれるサトウキビから作られます。
 
 
彼は、サトウキビの栽培から保管、運送、販売まですべてを藩で一元管理する「専売制」をとり、経費削減と増収を図ったのです。これで、砂糖問屋などが、間に入り込むことができなくなりました。

 
 

(2)清・琉球との密貿易

 

 
さらに調所は、鎖国下で禁じられていた他国との貿易を、内密に行います。
 
 
清(中国)や琉球との密貿易を活発化させることで、利益をあげていったのです。
 
 
これは、幕府に見つかったらアウトですよ。でも、そうでもしなければ、薩摩の財政立て直しを図れなかったのも事実でしょう。
 
 
思い切った財政改革は、きれいごとでは済まないのです。

 
 

失脚のきっかけは「お由羅騒動」

 

 
薩摩藩で、「お由羅騒動」と呼ばれる後継者争いが起こります。この騒動に、調所も巻き込まれることになったのです。
 
 
「お由羅騒動」は、藩主・島津斉興の後継者を嫡男・島津斉彬にするか、側室の子・島津久光するかという藩内抗争でした。お由羅騒動は、こちらに書きました。
   ↓
薩摩藩主・島津斉彬は名君だった?お由羅騒動と西郷隆盛との関係
 
 
島津斉興は、側室・由羅の子・島津久光を後継者にしたいと思っていて、調所広郷もそちら側につきます。
 
 
でも、島津斉彬は江戸幕府の老中主座・阿部正弘と仲良しだったので、彼に働きかけます。島津斉興や調所広郷が密貿易を行っていることを幕府に告発して、斉興を失脚させ、斉彬が次の藩主になったのです。
 
 
このとき、調所広郷も失脚しました。そして、彼は密貿易の件で阿部正弘に問い詰められ、黙秘したままその責めを一身に背負い、服毒自殺したのです。

 
 

薩摩の財政は完全に立ち直った

 

 
調所広郷の死後、調所家の家屋敷は没収されて、家格も下げられてしまいました。
 
 
でも、彼が20年にもわたって実施したこれらの財政改革により、薩摩藩は、ついに150万両もの備蓄金を持つ屈指の富裕藩になりました。
 
 
これが、その後の明治維新を牽引していくための財力となったのです。
 
 
そう思うと、やはり調所広郷は、薩摩藩にとっては功労者だと思うのですが、いかがでしょう?
 
 
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