この記事を読むのに必要な時間は約 9 分です。


 
こんにちは。
 
 
今回は、西郷隆盛の弟の1人西郷従道について、お伝えします。
 
 
一般的に「じゅうどう」と呼ばれることが多いですが、「つぐみち」と読むのが正しいとも言われます。
 
 
この当時の人の名前は、適当ですね。
 
 
ころころ変わるし、桂さん(木戸孝允)みたいに、命を狙われて何度も名前を変えた人もいます。
 
 
西郷隆盛は、本人ではなく父の諱(いみな)を役人が間違って登録してしまったのですが、「ま、まんまでよか」となったそうです。
 
 
西郷従道は、若い頃は「信吾(しんご)」という名で、みんなから「信どん」と呼ばれていたそうですよ。
 
 
お兄さんのネームバリューのせいで知名度はいまいちなのですが、かなりの破天荒エピソードが残っています。
 
 
こういう隠れたスパイスのような人、いいですね~♪
 
 
興味深いです。
 
 
2018年大河では、錦戸亮さんが演じられます。
注目しがいがありますね。

 
 

スポンサーリンク

西郷隆盛の15歳年下の弟

 
西郷従道は「西南戦争」には参加せず明治政府に残りました。
 
 
ちなみに、彼が東京郊外の別邸に接客の場として建てさせた本格的洋館建築の屋敷は、今は、重要文化財として「明治村」になっています

     ↓


 
西郷従道は、西郷吉兵衛の三男、西郷隆盛の弟です。
西郷隆盛は、7人兄妹なんですよ。
 ↓
長男 隆盛
長女 琴
次男 吉二郎
次女 鷹
三女 安

三男 従道
四男 小兵衛
 
従道は、貧乏な下級武士の家の6番目の子供で、長男の隆盛とは、15歳も年が離れていました。昔なら、親子ほどの歳の差ですね。
 
 
従道は若いころから真剣に剣術を習い、伊地知正治に兵学も学っています。
 
 
有村俊斎(海江田信義)に推薦してもらって、薩摩藩主・島津斉彬に仕えることとなり、茶坊主(雑用係)として働き、出世の糸口をつかみました。
 
 
その後、斉彬を信奉する「精忠組」に入って、尊王攘夷の過激派になりました。

 
 

もう1つの寺田屋事件

 

 
西郷従道は、しだいに周りの尊王攘夷の考え方に同調し、有馬新七らとともに、京都の役人や公家を暗殺しようというテロ計画に参加するようになります。
 
 
でも、この計画は事前に薩摩藩主・島津久光に知られてしまいました。そして、彼らは、京都の寺田屋で襲撃され、計画は失敗したのです。
 
 
これが、薩摩藩の「寺田屋事件」とよばれる事件です。
 
 
坂本龍馬も数年後、この舟宿・寺田屋で襲われますが、その「寺田屋事件」とは同名の別事件です。
 
 
当時、薩摩藩は伏見に藩邸を置いていて、寺田屋の舟は大坂ー京都間を早く行き来できたので、薩摩の藩士たち御用達の舟宿だったのです。
 
 
計画に参加した者の多くが重い罰を受けましたが、西郷従道はまだ若かったので、謹慎処分で許されました。
 
 
その後、薩英戦争(薩摩藩とイギリスの戦争)の際に謹慎が解かれます。
 
 
スイカ売りを装ってイギリス戦艦に乗り込もうとした「スイカ売り決死隊」にも参加しています。なんで「スイカ売り」???
 
 
かなり変わった人たちです。
 
 
過激なことをするのが好きな人だったのかもしれませんね。

 

 

スポンサーリンク

明治新政府で大活躍

 

 
西郷従道は戊辰戦争で、鳥羽伏見の戦いに参加します。そこで銃弾を受けて重傷を負いました。
 
 
戊辰戦争が終わると、山県有朋とともにヨーロッパに渡って、近代的な軍事を学びます。ロシア皇帝アレキサンドル2世にも会っていますよ。
 
 
そのとき、日本の軍人は、何が好きなのでしょうか?」と尋ねられて、従道はこう答えたそうです。
 
 
「やはりそれは、酒と女であります♪」
 
「・・・・・。」
ロシア貴族たち、ドン引きしたそうですよ。
 
 
たいしたものです。
 
 
帰国すると、学んだことをいかして、陸軍でキャリアを積みました。

 
 

西南戦争には参加せず

 

 
兄の西郷隆盛が下野したとき、村田新八ら多くの人が彼について薩摩に戻りました、でも、弟の従道は、新政府に残ったのです。
 
 
新政府は九州に討伐軍を派遣しましたが、従道はこれに積極的に関わっていません。鎮圧に向かったのは山県有朋で、従道は東京を守ることに専念したのです。
 
 
西南戦争で西郷隆盛・村田新八らが自決し、大久保利通が暗殺されると、明治新政府は旧長州藩士たちが幅をきかせるようになりました。
 
 
西郷従道は、従兄の大山巌とともに、そんな政府内で、薩摩藩出身の重要人物となっていったのです。

 
 

初代海軍大臣となり適当に指揮する

 

 
彼は、陸軍から海軍に移り、初代海軍大臣になっています。伊藤博文内閣の元で、天津条約の締結をするため清国にも渡りました。
 
 
彼は、部下に仕事を任せることができる人だったので、山本権兵衛のような逸材の力をうまく引き立てられたのだといわれます。山本は、後に内閣総理大臣になりました。
 
 
あまり現場のことに口を出さず、適当だったようですよ。でも、何かあったら責任は自分がとるという考え方だったそうです。かっこいいですね。その度量の広い対応で、現場はうまく回ったのでした。

 
 

内閣総理大臣の座を断り続けた

 

 
西郷従道は、明治新政府内で、文部卿、陸軍卿、農商務卿、海軍大臣、内務大臣と多くの主要ポストについています。
 
 
当然、内閣総理大臣に何度も推薦されましたが、兄の西郷隆盛が賊軍となったことを理由に、彼はこれを断り続けました。
 
 
同じく活躍した従兄の大山巌も、同じ理由で総理大臣の推薦を断っています。
 
 
明治政府内で、さまざまな活躍をした西郷従道は、1902年、日露戦争の終結を見ることなく、胃がんで亡くなりました。享年59歳でした。

 
 
【関連記事】




 
 

スポンサーリンク