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こんにちは。
 
 
幕末のビッグネームといえば、この人は外せません。
 
 
「維新三傑」の1人・大久保利通です。彼は、岩倉具視とともに明治新政府の基本方針を作った人です。
 
 
でも、西郷隆盛を死に追いやった張本人と思われがちで、いまいち人気はありません。多分、政治家気質の強い人だったんでしょうね。「利」をとる人です。
 
 
私はそんなに西郷隆盛が好きではないので、「征韓論」のいざこざは気にならないのですが、大久保の欧州文化にかぶれすぎなところが好きではないです。

 
 

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西郷隆盛と幼なじみ

 
出典元:https://ja.wikipedia.org/wiki/大久保利通
 
大久保利通は、1830年生まれ、父は薩摩藩士の大久保次右衛門です。
 
 
若い頃は「正助」と名乗り、後に島津久光から「一蔵」という名前をもらいます。「西郷どん」原作では、西郷隆盛は、始めは彼のことを「正どん」、後に「一どん」と呼んでいますよ。
 
 
大久保は西郷の3歳年下で、同じ下加治屋町で郷中教育を受けました。
 
 
二人は幼なじみだったのです。
大久保は、武術はもひとつでしたが、頭はとてもよかったのでした。

 
 

お由羅騒動で父が流刑に

 

 
大久保は、成人すると記録所書役助という薩摩藩の仕事に就きました。
 
 
でも、ここで起こった「お由羅騒動」
 
 
本当にこの騒動は、いろんな人の人生に影響を与えてました。そのとき、斉彬派だった大久保の父・次右衛門が、喜界島に流罪になってしまったのです。
 
 
息子の大久保利通も、謹慎処分になり、職を失ってしまいました。このとき、家の収入が全くなくなってしまい、かなり困窮したのだそうです。
 
 
島津斉彬が藩主に決まり、「お由羅騒動」が落ち着いた3年後、父の次右衛門は薩摩に戻ることができ、利通も仕事に復帰できました。

 
 

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本に手紙を忍ばせて島津久光に接触

 

 
ときは流れて、斉彬が急死し、薩摩の藩主は久光の子・茂久に移りました。茂久はまだ若かったので、父の久光が実権を握るようになりました。
 
 
大久保一蔵は、下から2番目の階級の下っ端武士です。藩主・島津久光に近づくことなど、まずできません。
 
 
それで、なんとかならないかと、考えに考えました。そして、久光と親しい僧をなんとかツテにして、久光が読みたがっている本を手にいれ、そこに名前や信条を書いた手紙を忍ばせました。
 
 
この作戦は、見事に成功しました。本を読んでいるとき、しおりのように挟まっている手紙があれば、つい読みたくなりますよね。久光はそれに目を通し、大久保の名前を覚えたのです。
 
 
その後も、あれやこれやと気に入られるために画策して、島津久光の信頼を得られるようになり、10年後には、久光の懐刀と呼ばれるまでになりました。
 
 
西郷隆盛が奄美大島から戻れたのは、大久保が久光に取り合ったからだともいわれていますよ。久光は、西郷隆盛が大・大・大嫌いだったので、できれば一生ほったらかしにしようと思っていたかもしれません。

 
 

明治新政府で活躍する

 

 
大政奉還の後、天皇を中心とした明治新政府が誕生します。この新しい体制は、主に大久保利通と岩倉具視を中心に築かれました。
 
 
大久保利通は、新政府の参議に就任します。
 
 
そして、「版籍奉還」「廃藩置県」などの近代政策を進め、中央集権体制を強めていきました。

 
 

島津久光と決裂

 
 
藩政を排して都道府県を設置するという「廃藩置県」は、代々その地を統べていた藩主たちの不興を買います。
 
 
その最たるものが、薩摩藩の島津久光でした。
 
 
久光には、重用してやった下級武士が、自分を踏み台にして中央政府でのし上がったと感じたのでしょう。本気で大久保に腹を立てていました。
 
 
大久保利通は、地元の鹿児島がこんな様子では新政府内で面目が立たないということで、西郷隆盛に協力してもらい、なんとか久光をなだめようとしますが、久光はかたくなでした。

 
 

岩倉使節団で欧州視察し欧米化を図る

 

 
新政府の形が整ったのを見届けると、日本の国力を体外にも知らせようと、岩倉使節団が結成されました。大久保もそのメンバーとして、欧米視察に出かけました。西郷隆盛はお留守番だったのですが、この視察団はかなりの大所帯でした。
 
 
欧米視察からもどると、新政府は「征韓論」で混乱していて、ここで大久保は、西郷隆盛と決定的に意見が対立することになります。
 
 
そして、結果的に大久保が勝って、西郷隆盛を薩摩に下野させることになりました。

 
 

士族の反乱が各地で起こる

 
 
「廃刀令」による武士の帯刀の禁止は、士族階級に大きな憤りを与えます。帯刀は武士のアイデンティティーでもありました。それを否定されたのです。
 
 
士族階級は、近代国家にとって不要な存在となり果てたのでした。
 
 
それに不満を募らせた不平士族たちが、各地で反乱を起こすようになりました。
 
 
大久保は、士族の反乱の1つ「佐賀の乱」では、自ら兵を率いて鎮圧しています。

 
 

西南戦争で西郷隆盛を自決に追い込む

 

 
そして、とうとう日本最後の内乱、最大の士族の反乱・西南戦争が起こります。
 
 
大久保利通は、このとき西郷隆盛に直接会うことなく、東京で新政府軍の指揮をとりました。
 
 
西南戦争は、西郷隆盛が自決し、新政府軍に鎮圧されて幕を閉じました。

 
 

「紀尾井坂の変」で暗殺される

 
 
西南戦争が終わった翌年、大久保利通は士族たちによって暗殺されました。享年49歳でした。
 
 
明治天皇に謁見するため、馬車で赤坂御所に向かっているとき、6人の刺客に襲われたのです。
 
 
遺体の様子は凄惨を極めたといわれます。16カ所の傷のほとんどが頭部に集中していて、喉に刺した日本刀は、地面にまで突き刺さっていたそうです。強い憎悪を感じますね。
 
 
刺客たちはすべて自首し、死刑に処せられました。

 
 

おわりに

 

 
国家の体制を丸ごと変える新しい体制作りは、困難を極めます。変わったことで不利益をこうむる人たちが出てしまうのは、避けられないことだからです。
 
 
大久保が士族の憎悪を一身に受けてしまったのは、自分だけが高い地位を得て、盟友の西郷隆盛を死に追いやったと思ったからでしょう。
 
 
また、下級武士出身でありながら、最高位にまで上り詰めた大久保へのやっかみも大きかったでしょう。
 
 
暗殺者の殺害理由は、逆恨みと誤解によるものでした。
 
 
大久保利通が国家予算を好き勝手使っていると思っている士族も多かったようですが、彼は私財を投入し、個人的に借金までして、日本の近代化に努めていたのです。
 
 
彼は日本が欧米列強に負けないような強い国になることを願っていました。
 
 
大久保利通がもう少し長く政治に携わっていたら、その後の日本の歴史はどう変わったかなと考えるのもおもしろいです。

 
 

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