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こんにちは、このかです。
 
 
林真理子原作の「西郷どん」は、明治新政府になってからの吉之助新八の言葉に、ぐっとくるものがあります。
 
 
「土(自然)の文化を持つ日本は、鉄と石炭(人工物)の文化とは違う」という吉之助の考え方は、「欧米に追いつけ追い越せ」路線を進む大久保利通らとは、決定的に目指すものが違っていました。
 
 
今回は、吉之助たちの言葉から、印象に残ったものを取り上げます。
 
 
でも、これは「西郷どん」というフィクションの中の言葉です。ですから、本当に西郷隆盛がまったく同じように考えていたかは、定かではありません。

 
 

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吉之助の国を想う言葉

「農業こそが国の土台じゃち。」
「農業だけは誰も不幸にせん。農業こそは、魂の作業じゃでなあ。」

           引用元:「西郷どん」(下)

吉之助は、自分は西洋人が好きにはなれないので、けっして行くことはないけれど、息子・菊次郎をアメリカ留学させます。
 
 
外国へ行って農業を学んで来いという吉之助に、菊次郎は、「百姓仕事をするのに勉強がいっとですか」とたずねました。
 
 
それに対する吉之助の答えです。
 
 
新政府の役人たちが、国を富ませようと貿易ばかり考えているのに対する警鐘です。確かに、貿易で国がうるおうことはありますが、貿易ばかりでは国は疲れ、いつかほころびが出てくると考えているのです。
 
 
菊之助は、腑に落ちないまま、農業を学ぶために渡米しました。(政府の財政緊縮政策で1年で帰国)

 

「一どん(大久保利通)、おいたちは弓の形をした国の者じゃ。弓のつるんところには、朝鮮がある。台湾がある。清国がある。このアジアの国々がまず手を結び合う。そして、一つとなってロシアと欧米に対抗すっとじゃ。 
 それはわが君主斉彬様がおいに言い残したことじゃ。なあ、一どん、どげんして船で三カ月もかかる国と仲よくしなければなかんとじゃ。」

              引用元:「西郷どん」(下)

西郷隆盛は、「征韓論」に敗れて薩摩に戻ったと思われがちです。
 
 
でも、彼が主張したのは「征韓」ではなく「遣韓」でした。自分が特使として朝鮮に行って、まず対話の糸口をつかもうとしたのです。話合いの場さえ設けることができれば、分かり合えるようになると思っていたのです。
 
 
それが、いつの間にか(新政府のプロパガンダで)、朝鮮を攻めようとしたということになっていました。
 
 
歴史は常に勝者の主張だということが、よくわかりますね。

 
 

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最期まで吉之助を慕った村田新八

 

 
 
村田新八は、吉之助と同じ郷中の後輩で、子供のころから吉之助を尊敬し慕っていました。喜界島に流刑になったとき、吉之助に助けてもらった恩もあります。
 
 
新八は、岩倉使節団の一員として欧州視察に行き、新政府でも高い地位を約束されていた人でしたが、吉之助が薩摩に戻ったと聞き、すぐに駆けつけました。
 
 
そのとき吉之助は、西洋を見てきたものは、それを国のためにいかすべきだ(新政府に戻れ)と新八に言います。それに対して応えたのが、この言葉です。

「吉之助さあ、ヨーロッパがそげによかもんじゃろか」
 
「おいはフランスやイギリスを見た。汽車が走り工場からは煙がわんわん出ておいもした。じゃっどん、そこにいる人間は幸せやったろか」
 
「のう吉之助さあ、おいたちは貧乏な田舎で育った、米も食べられん暮らしじゃった。じゃっどん、米はなくても芋はそこいらにころがっちょった。土の上で、陽を浴びての貧乏はそうつらくはなか。じゃどん、ロンドンやパリの貧乏は違っ。陽もあたらんような、暗い大きか建物の隅に、こう、ネズミのように暮らしちょった。
(中略)
なあ、吉之助さあ、こいがおいたちの目指しちょっ国やったろか」

                      引用元:「西郷どん」(下)

 
 
村田新八は、薩摩に戻って、桐野利秋・篠原国幹らと私学校を作りました、
 
 
西南戦争には、長男の岩熊をともなって参加し、吉之助の自決を見届け、最後は、自害して果てました。
 
 
村田新八は、大変優秀な人物で、彼が吉之助を追って薩摩に下ったと聞いたとき、大久保利通は茫然としたと伝えられます。また、勝海舟は、「彼は大久保利通につぐの傑物なり」と評しています。
 
 
吉之助は、下野してから、薩摩で私学校を建て、文武と農を若者たちに教えていました。
 
 
明治政府は断髪、廃刀など形ばかりをまねる欧化政策を推し進めます。でも、それは、日本に根ざしてきた「武士道」「日本人の心」を古臭いものと切り捨てる政策でもありました。吉之助は、新しい日本は、帝国主義の覇道のまねごとをする国であってよいものかと、憂えたでしょう。
 
 
西南戦争では、彼は政府軍を打ち破ろうと主体的に動いたようには見えません。彼が残した言葉の通り、「この身はおはんたちに預けしもんそ」という想いだったのでしょう。
 
 
そして、「区切りにいる者は死ななくてはならん」という心境だったのだと思います。
 
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