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菅原道真といえば、天神様!
 
「学問の神様」として、不動の地位を築き、全国にある「天満宮」でお祀りされています。
 
受験生に大人気で、関西では、
 
北野天満宮(京都)
大阪天満宮(大阪)

 
を筆頭に、「てんじんさん」と親しみをこめて呼ばれています。
 
実在したとはっきりわかっている人物が「神」となるには、それなりの深~いわけがあるんでしょうね~♪
興味深い人物です。

 

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菅原道真はスーパーエリート!

 

 
菅原道真は、平安時代に活躍した高級官吏でした。
 
生誕 845年
死没 903年
 
この時代は、藤原氏が宮廷内で勢力を拡大しつつある時期で、藤原氏以外の者を宮中の重要ポストから外そうという動きが活発でした。それを藤原氏の「他氏排斥」といいます。
 
菅原道真は、菅原氏といって、もともと学者の家系だったのです。
生まれも京の都ではなく奈良県です。
 
彼は、幼いころから神童と呼ばれる秀才で、18才で式部省試という難しいテストを受けて文章生になります。
 
そして、33才のとき、学者の頂点・文章博士(もんじょうはかせ)に上り詰めます!
 
秀才なので、勉強ばっかりしてるのかと思いきや、なんと、弓矢の名手というスポーツの特技もあったんですよ。
 
かっこいい人ですね。
 
菅原道真の大きな政治的功績を、ここで確認しておきましょう。

 

遣唐使廃止を決定した人?

 

 
菅原道真は、遣唐使を廃止した人として知られています。
 
でも、実は、遣唐使は、はっきり廃止されたわけではないんですよ。
どちらかというと、「今は派遣しないほうがよい」=「中止」の意味合いが強かったのです。
 
その後、道真は、藤原時平に政争で敗れ、大宰府に左遷されて任務を解かれます。
 
それによって、この遣唐使も自然消滅してしまったようなんですね。
道真の次に大使に任命される人が、いなかったようなんです。
 
では、なぜ、道真が中止すべきと進言したのか。
その理由は、大きく2つあります。
 
(1)特別な秀才を派遣するのに、航海中に事故死することが多かった。
(2)唐の政情不安定

 
実は、平安初期になると、すでに遣唐使の是非について、論争があったようです。
 
小野篁も、ボイコットしています。
先見の明のある人の目には、遣唐使はもうあまり意味のないものと映っていたのでしょう。
 
奈良時代には、リスクを取ってでも行く価値があると思われていた遣唐使のとらえ方が、時代と共に変わっていったのです。

 

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「大宰府(福岡県)に左遷されることになった理由

 

 
菅原道真の活躍できたのは、当時の天皇・宇多天皇に重用されたことが大きいです。
藤原氏と違って、後ろ盾がほとんどありませんからね。
 
宇多天皇は、宮中が藤原氏一色になるのを、好ましく思っていないようでした。
 
菅原道真は、宇多天皇に出世レースの入り口といわれる「蔵人頭(くどうどのとう)」に抜擢されて、最終的には、政界ナンバー2の座「右大臣」にまで上り詰めます。
 
でも、宇多天皇が息子・醍醐天皇に位を譲ると、事態が一変してしまうのです。
醍醐天皇は宇多天皇と違って、藤原氏の母を持つ天皇でした。
 
藤原氏に近い天皇だったのです。
 
しばらくして、菅原道真は、左大臣・藤原時平をはじめとする藤原一門に陥れられて、大宰府に左遷されてしまいます。
 
このとき道真は57才でした。
当時にしたら、相当な高齢です。
そして、その2年後、大宰府で失意のまま亡くなります。
 
無念の死だったでしょうね。
原因は、藤原氏が政治を独占しようとしたことによります。
 
菅原道真が亡くなった後、道真を陥れた人たちが、落雷や病で急死する事件が続き、京の都は天変地異に襲われました。
それは、10年たってもおさまらず、道真公の祟りではないかと、恐れられるようになりました。
 
醍醐天皇も亡くなり、その後、一条天皇のときに、道真は、名誉を回復しただけでなく、北野天満宮に天神様として祀られることになったのです。
 
その後の人々の動きからみても、完全に冤罪だったんだなーというのが、よく分かりますね。
 
「菅原道真の祟りの全て」は、私のもう1つのブログにあります。
「通りゃんせ」は天神さん参りの歌ですよ!
  ↓
「通りゃんせ」の歌詞の意味~行きはよいよい帰りはなぜ怖い?

 

 

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