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戦国時代の美女というと、何人か名前があがります。
 
その筆頭は、なんといってもこの人、信長の妹「お市」でしょう。
 
当時の美女がどんなタイプだったのか気になりますが、織田家は美形筋といわれますので、やはりかなりきれいな人だったと思われます。
 
お市は、生涯2度結婚しています。
 
戦国時代の女性のことは、あまり文献に残っていなくて不明なことが多いです。
お市の場合、その功績は、浅井長政との間に「3人の娘」を産んだことでしょう。
 
それでは、お市の生涯の大事なポイントを、見ていきましょう。

 

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織田信長の妹

 

【引用元】wikipedia.org

 
織田信長の妹の中でも、お市(1547年ー1583年)は特に美しく、信長がもっとも可愛がった妹だといわれています。
 
戦国大名家の娘に生まれたからには、政略結婚は当然の時代でした。
 
そこで、信長は尾張と京都を結ぶ要所だった北近江の浅井家にお市を嫁がせることに決めます。
 
お市、17歳のときでした。
 
これにより織田家と浅井家は同盟を結ぶことになりました。

 

1度目の結婚・浅井長政の妻

 

 
お市の1度目の結婚相手は、北近江を治める浅井長政でした。
浅井長政は、伝えられるところによると、めっちゃいい男だったそうです。
 
政略結婚なのに、美男美女で夫婦仲もよかったそうです。
そして、3人の娘に恵まれます。
 
でも、順風満帆とはいかないのが、戦国の世の習わしです。
 
織田と浅井が対立関係になり、兄の信長に討たれて浅井長政は自刀します。
 
お市と3人の子供たちは、どうなったでしょう。
 
浅井家嫡男の万福丸(側室の子)は、武士の定めとして処刑、次男は出家させられました。
 
しかし、お市と3人の娘は、救い出されて、信長の兄の信包(のぶかね)のもと清州城で手厚く保護されます。信長が気遣ったため、かなり贅沢な生活ができたようです。
 

 

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2度目の結婚・柴田勝家の妻

 

 
1582年、「本能寺の変」で兄・信長が討たれた後、織田の後継者を決める会議が開かれました。
 
有名な「清州会議」です。
 
そのとき、お市は、織田の重臣・柴田勝家と結婚することに決まりました。
お市36歳、柴田勝家は60歳です。
 
ですが、その1年後には、柴田勝家と豊臣秀吉が対立し、戦に発展します。
居城・北ノ庄城を攻め落とされた柴田勝家は、お市に城を出よと言いますが、お市は、共に自害することを選びます。
 
この柴田勝家との結婚は、お市にとって、どんなものだったのでしょう。
 
結婚してたった1年です。
そして、勝家は、60歳という親のような年齢の夫でした。
 
織田家筆頭家老だった柴田勝家は、亡き主君の妹君とその娘たちを、「庇護者」として温かく見守っていたと思われます。
 
また、お市もそんな勝家に親しみを感じていたのではないでしょうか。
 
これまでの解釈では、お市が下品な秀吉を嫌っていたから、柴田勝家を選んで一緒に死んだと考えられることもありましたが、今では、実際、この結婚を勧めたのは、秀吉だったといわれます。
 
 
お市と勝家の当時の心境は、2人の「辞世の句」に十分表れている気がするのです。
 
● お市の辞世の句
 
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜に 別れを誘う ほととぎすかな」
 
(それでなくても、短い夏の夜が終わってしまいました。ホトトギスが、別れを誘っているのでしょう。)
 
● 柴田勝家の辞世の句
 
「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ ほととぎす」
 
(夏の夜のようにはかない人生だったが、私たちの生きた証しとして、この名を上げてくれよ、ホトトギス。)
 
この2人の句を聞いた、歌人の文荷斎が、こう詠んでいます。
 
「おもうどち 打つれつつも 行道の しるべやしでの 山ほととぎす」
 
(お二人の行く先では、きっと、ホトトギスが道しるべとなってくれると思いますよ。)
 
 
 
ホトトギスは、夏に日本に来て、夏が終わると南の国に去っていく夏の渡り鳥ですね。また、昔は、ホトトギスは、あの世にある「死出の山」から飛んでくる伝説の鳥と考えられていました。
 
同じ「ホトトギス」を詠んでいて、勝家の辞世の句が、お市の句の「返歌」のようになっているところが、すごく興味深いです。
 
この2つの句から、2人の間に、確かに温かい信頼関係が存在したと読み取れないでしょうか?
 
詠まれた状況を考えると、胸を打たれる言葉です。

 

浅井三姉妹の母

 
 
お市は1度目の結婚で、浅井長政との間に「茶々・初・江」という3人の娘を産んでいます。
 
● 茶々
 
長女の茶々は、後に、豊臣秀吉の側室・淀殿となり、2人の男子を産みました。
 
長男は幼くして病死しましたが、次男は豊臣秀頼となり、「大坂夏の陣」で徳川家康に敗れます。
 
そのとき、茶々(淀殿)も、共に自害して果てました。
 
●お初
 
次女のお初は、京極高次と結婚します。子供はいませんでした。
 
京極氏は、近江の守護大名で、室町幕府では四職をつとめた名門ですが、強大な大名ではありません。
 
ですが、お初と高次はいとこ同士で幼なじみでしたので、幸せな結婚だったのかもしれません。
 
お初が、比較的表舞台に立つのは、1614年、大阪冬の陣のときです。
 
この戦いの和平交渉の豊臣方の使者として、夫亡き後、常高院となった彼女が、徳川方の阿茶局と、和議の交渉に力を尽くすのです。
 
彼女は、三姉妹の中で、もっとも長生きしました。
 
●お江
 
三女のお江は、豊臣秀吉の政略の道具となり、3度結婚します。
 
佐治一成(織田信雄の家臣)、豊臣秀勝(豊臣秀吉の甥)と2人の武将に嫁いでは、離縁、3度目に、第二代将軍・徳川秀忠の正室となります。
 
秀忠との間に、2男5女をもうけ、娘の「千姫」は、甥でもある豊臣秀頼に嫁がせています。

 

まとめ

 
お市の方とその3人の娘について、簡単に紹介しました。
 
政略で翻弄された人生ではあったけれど、信長の妹というブランド力と美貌で、2人の夫には大事にされて、女性としては幸せだったのではないかと思います。
 
●戦国一の美女といって間違いない
 
●功績はなんといっても「浅井三姉妹」を産んだこと
 

 

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