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武田信玄といえば、当時の戦国武将の中でも十本の指に入る戦上手として武勇を轟かせています。
 
「孫氏の兵法」を重んじ「風林火山」の旗印を掲げて戦に臨んだことで、知られますね。
 
かっこいいです。(≧◇≦)
 
でも、信玄は、ただの戦馬鹿ではなく、アイデアマンとしても有能な人物だったのですよ。
今回は、甲斐の虎と呼ばれた武田信玄を紹介します。

 

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武田信玄はこんな人!

 
武田信玄は、1521年に甲斐の守護・武田信虎の嫡男として生まれました。
 
父・信虎の代に甲斐の国を統一し、信玄はその体制を継承して(父を追放しています)、隣国の信濃へと侵攻しました。
 
甲斐の国は、北に越後の上杉謙信、南には駿河の名門・今川義元、東には相模の北条氏康、西には尾張の織田信長という、強大な軍事力をもった大国に囲まれていました。
 
越後の龍・上杉謙信との5回に渡る「川中島の合戦」は、戦国時代のライバル対決として、たいへんよく取り上げられます。
 
信玄は、ただ実践に強いだけではなく、外交面の駆け引きや統治力も高く、家臣から絶大な信頼を受けていたようですよ。
 
言い伝わる戦術も、騎馬戦術、間者(スパイ)の使用による情報戦、ムカデ衆などを用いた戦場での状況把握や情報伝達への工夫などが、挙げられます。
 
信玄が戦の天才と言われたのは、戦いの前に自分に有利な状態を作り上げる戦術と、層の厚い有能な家臣たちの登用の巧みさ、それに結束力の強さにあります。
 
記録によると、当時から上杉家や北条家には、敵ながらあっぱれと高評価されていたようですし、織田信長は、信玄とは争いを避け友好状態を保つために、甲冑や掛け軸など様々な贈り物をし、勝頼との縁談を持ち掛けたりしています。
 
また、江戸時代になって、武田軍を元ネタにした「武田二十四将」や「武田騎馬軍団」が逸話として広まり、戦国最強というイメージが作り上げられたというのも、大きいと思います。
 
武田軍は、騎馬軍団で知られますが、実際の当時の馬の使い方は、「物資の運搬」が主な目的で、戦うときは馬を降りて戦うことがほとんどでした。ですから、大河ドラマなどの騎馬隊突撃のイメージは、後世作られたものなのです。
 
山岳地帯の多い甲斐では、騎馬隊の機動力・運搬力は、大きな威力を発揮したと思われます。
 
自国にあった戦法・戦術を構想し実践できていたということでしょう。

 

風林火山

 

 
孫氏の兵法で知られる「風林火山」
 
武田軍の旗印として、ドラマでも、すごい存在感がありますね。
 
実は、武田信玄は、幼少期から長禅寺の禅僧・岐秀元伯の元で、「禅」や様々な「兵法」を学び、高い学問を治めた青年でもありました。
 
この「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」は、「孫氏」軍争篇第七の軍隊の進退について書かれた文章を、部分的に引用したものです。

疾如風ーはやきことかぜのごとし
徐如林ーしずかなることはやしのごとし
侵掠如火ーしんりゃくすることひのごとし
不動如山ーうごかざることやまのごとし

当時の中国の戦術・戦略論の最高峰の1つ「孫子」を愛読し、理論的な戦略論を学び実践していたとわかりますね。
 
信玄が使用した戦術・戦略は、後に「甲陽軍艦」として甲州流軍学の礎となって、広まっていきました。

 

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内政・巧な土木治水工事

 
武田信玄の治める甲斐国(山梨県)は、四方を山に囲まれた土地で、海に隣接していないという弱点を持った国でもありました。
 
信玄は、周辺諸国と戦いながら、領地の治水事業を積極的に行った武将です。
 
代表的なものは、甲府盆地を流れる釜無川(かまなしがわ)と御勅使川(みだいがわ)の合流部の改修工事で、これは「信玄堤」と呼ばれ、川の流れを変えて洪水を抑えるだけでなく、川の水を農業用水として活用できるように整備している優れものなのです。
 
また、堤防の上に神社を作って、祭りを開催して人を集め、堤防を踏み固めさせるなどの工夫も行ったそうですよ。
 
洪水を治め、農業用水を確保することは、人々の生活にすごく重要な「水」の調整をしたということですね。
 
ですから、甲斐国の民衆にもらたいへん喜ばれ、親しまれた武将だったそうです。
 
信玄の統治者としての優れた点は、軍事と内政双方あったとも言えますね。
信玄の名言の1つにこんな言葉があります。
 
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。」
 
この言葉は、どれだけ城を強固にしても、人の心が離れてしまえば世の中を収めることができない、熱い情けを持って接すれば、強固な城以上に人は国を守ってくれるし、仇を感じるような振る舞いをすれば、いざというときに、自分を守るどころか裏切られて窮地に追い込まれるという意味です。
 
武田信玄は、父親を追放して家督を継ぎ、実の息子を謀反の疑いで目付け役と共に切腹させた非常な面を持っていますが、本来は情深く、領民から人気があり、配下からも信頼されていたというのがわかります。

信玄の遺言

 
武田信玄が、病に倒れたとき、「天下布武」を掲げる織田信長はじめ、天下を狙う武将たちが群雄割拠している状態でした。
 
ですから、脅威であった信玄の死の知らせは、否応なく敵の士気を上げることとなります。
 
また、信玄は、息子の勝頼と家臣が一致団結して戦に臨むのは、難しいと考えていました。
 
当時の武田家は、もともと家督を継ぐはずだった信玄の長男・義信が、父の暗殺を企てたとして廃嫡されたため、当初は諏訪家を継いでいた庶子の勝頼が、家督を継ぐため呼び寄せられていたのです。
 
ですから勝頼は、武田の重臣たちとはそりが合わないというか、重臣たちが諏訪(←元敵方)の血を引く勝頼のいう事を、なかなか聞かない状況でした。カリスマ社長(信玄)の下で一致団結していたのに、若い支店長上がりが次期社長(勝頼)になったので重役たちの反感が強かったという状態です。
 
本来なら、時間をかけて信玄が仲立ちをするべきだったのですが、そうする間もなく、病に倒れてしまいます。
 
信玄は、自分亡き後の武田家を心配し、「自分が死んだことを3年隠せ」という遺言を残したといわれます。
 
でも、どこの武将も間者を使っていろいろ探り合っていたので、数日後には、ばれました。( ̄▽ ̄;)
 
信玄亡き後、勝頼が「長篠の戦い」(1575年)で織田信長に敗北したのは、仕方のないことかもしれません。
 
1582年、織田信長の甲州征伐(天目山の戦い)で、敗北した勝頼は自害します。
 
これにより、信玄の死後10年で、武田家は滅亡しました。
(子孫はご存命のようです。)

 

まとめ

 
武田信玄の強さの秘訣は、バランスのとれた軍事・内政にありました。
 
特に、家臣や領民の人心をつかむのがうまく、実際に、今でも甲斐(山梨県・長野県の一部)の人々に、たいへん慕われているようです。
 
●甲斐の虎と呼ばれる戦術・戦略の達人
 
●孫氏の兵法を良く学び、「風林火山(ふうりんかざん)」と書かれた旗印を掲げる
 
●領民を大切にし、治水などにも尽力したため慕われていた
 
●越後の上杉謙信とのライバル対決(川中島の合戦)が有名

 

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