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こんにちは!
 
「西郷どん」は南国が舞台になってますね。
 
 
愛加那の手に刺青(入れ墨)があるのは原作を読んでいて知っていましたが、結構目立つものなんだな―と思いました。
 
 
奄美大島の刺青は本土のものとは全く違う意味合いを持ちます。
 
 
奄美大島は当時は薩摩藩の統治下でしたが、長い間、日本ではなく琉球王国に統治されていました。ですから、琉球文化の風習が残っているのです。

 
 

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奄美大島に残る「刺青」文化

 

 
奄美大島は、地理的にも日本の本土より沖縄に近く、昔は長い間、琉球王国に支配されていたので、日本とは全く異なる文化や風習を持っていました。
 
 
「西郷どん」の愛加那の手の甲にしている刺青(入れ墨)は、この琉球文化の流れを受け継いだものなのです。
 
 
琉球では女性が成熟した証として、手の甲と指に刺青を入れる習慣がありました。
琉球ではこの手の甲に入れる刺青を「ハジチ」と呼びます。
 
 
「ハジチ」は13歳頃になるとまず左手に入れます。そうして、結婚すると右手にも入れるというルールがあったのです。
 
 
つまり、左手のハジチは「成人した印」右手のは「既婚者の印」だったのです。
 
 
左手に入れるのが13歳ごろというのは、おそらく初潮を迎えるころなのでしょう。「成人の印」ですからね。
 
 
でも、沖縄では左手のハジチは、もっと小さい(7~8歳)頃から少しずつ入れ始め、16歳ぐらいに完成させたそうですよ。島によって少し違いがあるようですね。
 
 
ハジチの模様は、基本的には22個の文様を入れて完成としもすが、女性の地位や島によって文様の種類はいろいろ違ったようです。

 
 

ハジチには「魔除け」の意味もあった

 

 
ハジチは左手のは「成人の印」、右手のは「既婚者の印」と左右で異なる2つの意味を持っていました。その他にもう1つ、ハジチは「魔除け」の力があると信じられていたのです。
 
 
昔、奄美大島などでは、ハジチを入れずに死んでしまったら、あの世で鬼にいじめられて極楽に行けない(つまり地獄行き)と信じられていたのです。
 
 
今でも、南国の島々には、ハジチをしていないければ成仏できないという歌が残っていて、ハジチをする前に亡くなってしまった娘の手には、死後ハジチを入れることもあったのだそうです。
 
 
成人した証や夫のいる女性の目印として女性だけに入れられたというところが、すごく女性差別に思えて嫌な感じがしませんか?
 
 
また、他にもハジチをしていれば島から本土(日本)へ連れ去られることがないと思われていたそうです。
 
 
娘を盗まれないための防犯効果があったというのは、きっと確かでしょう。当時の貧しい女性は、お金で売られたり強奪されたりして日本やアジアに売られることが多かったのです。
 
 
そういうのを避けるという意味では、立派な魔除け効果があったでしょうね。薩摩(日本)の人は、刺青(ハジチ)を入れてる女性にはびっくりして手を出さなかったそうですから。

 

 

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ハジチの模様には意味がある

 

 
ハジチには模様がありますが、その柄にはやはり意味があります。
多くは柄自体に「子孫繁栄」や「魔除け」の意味があるそうですよ。
 
 
琉球では遭難しかけた船が刺青をした女性の手に助けられたという昔話が伝わるので、海に入るときの魔除けになったともいわれます。
 
 
ハジチは、それぞれの島や身分によって模様が異なるので、ハジチの模様を見ればどの島のどんな身分の女性なのかわかったそうですよ。
 
 
愛加那の入れ墨のことは、原作の「中巻」でも出てきます。
 ⇒「西郷どん」原作(中巻)レビューはこちら♪

 
 

ハジチを入れるとき痛くないの?

 

 
ハジチは刺青(入れ墨)と同じで、細い針を皮膚を突き刺して墨を流し込むので、相当痛いはずですね。
 
 
ハジチの場合は、針ではなく竹針や楊枝を使ったそうです。
 
 
入れ方は、まず「泡盛」で手の甲を消毒します。時代劇で傷を「日本酒」で消毒するシーンがありますが、こちらは「泡盛」なんですね。地方色が出て面白いです。
 
 
そして、竹針や楊枝の先に「墨」を付けて、肌に何度も突き刺して「墨」を流し込むのです。
 
 
大きなハジチを入れている人は、それだけ強い痛みに耐えた人なので、周りの人から一目置かれたのだそうですよ。
 
 
でも、刺青が根性ある証というなら、アチラの人と同じなような気がするんですけど・・・
 
 
ハジチの場合は、女性の出産の痛みや、結婚してからの忍耐に耐える「覚悟」があるという意味なのだそうです。
 
 
結婚してからの忍耐って、やっぱり結婚してもつらい事が多いということなんでしょうか?
 
 
いずれにせよ、南の島の人々は、琉球に支配され薩摩に支配され、苦しい生活を続けてきたのでしょう。
 
 
特に、薩摩の奄美大島へのさとうきび税の取り立ては、「黒糖地獄」と呼ばれるほどすごく厳しいものでした。
 
 
このような島民の犠牲の上に、調所広郷の財政再建の成功があり、島津斉彬の集成館事業があったのです。

 
 

おわりに


奄美大島に残る風習「ハジチ」についてお伝えしました。
 
 
ハジチには3つの意味があります。
 
★左手の甲と指のは「成人した印」
★右手の甲と指のは「既婚者の印」
★ハジチそのものが「魔除けのお守り」

 
 
幕末期の奄美大島の人々は、薩摩(日本)からかなり差別的な扱いを受けていたと分かります。
 
 
西郷隆盛は愛加那を妻として愛しましたが、彼女が薩摩(本土)の地を踏むことは一生ありませんでした
 
 
息子の菊次郎は、西南戦争で片足を失いながら生還し、明治になると「京都市長」に就任して大活躍します。
 
 
菊次郎は、愛加那に会いに何度か奄美大島を訪れていますよ。
 
 
南の島々のハジチの習慣は、明治32年に明治政府から禁止令が出されてなくなりました。
 
 
でも、この風習は「魔除け」という大切な娘を守るという意味もあったので、昭和の初め頃までこっそり続けられていたそうですよ。
 
 
愛加那の入れ墨のことは、原作の「中巻」でも出てきます。月照との心中もね。
 ⇒「西郷どん」原作(中巻)レビューはこちら♪
 
 
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