この記事を読むのに必要な時間は約 8 分です。


 
今川義元といえば、白塗りの公家の姿で、いつも輿に載っていて弱そうでコミカルなキャラとして描かれることが多いですね。
 
なかなか愛すべきキャラだと思いますが、本当にあんな感じだったのでしょうか?(*´Д`)
 
まず、思い浮かぶのは、やはり「桶狭間の戦い」ですね。
 
それでは、今川義元の人物像を追ってみましょう。

 

スポンサーリンク

駿河の名家・今川家

 
今川義元は、1519年、駿河と遠江の守護・今川氏親の5男として生まれました。母は、父の正室・寿桂尼という公家の娘(権大納言・中御門宣胤の娘)です。
 
京の都と縁が深く、建仁寺から教育係として招かれた太原雪斎から学びますが、5男であったため、幼少期から仏門に出され、出家し臨済宗の善徳寺に預けられました。
 
その後、太原雪斎と一緒に京に上り、五山を学んで学識を深め、何度も京都と駿府を行き来するうちに、都の人脈が増えていきました。
 
父が亡くなった後、家督を継いでいた長男の今川氏輝が24歳で急死します。(1536年)実は、このとき、次の継承者とされるもう1人の兄・今川彦五郎も同じ日に死亡しているのです。この2人の死は謎めいていて、毒殺説、自殺説などがささやかれています。
 
そして、今川義元に継承権が回ってきたのですが、反対勢力との間で内乱に発展します。(花倉の乱)
 
それを治めて今川義元は、第11代当主となりました。

 

「甲相駿三国同盟」

スポンサーリンク

 
 
家督をついだ義元は、それまで敵対関係にあった甲斐の武田信虎(←信玄の父)の娘を正室に迎え、同盟を結びます。
 
すると、武田家に近づいたということで、それまで親交のあった北条家との関係が悪化して、北条軍からの攻撃を受けます、しかし、義元は上杉憲政と謀って北条氏綱を挟み撃ちし、撃退に成功したのでした。
 
その後、三河をめぐって織田家と争い、人質として受け入れるはずの松平家の竹千代(徳川家康)織田信秀(←信長の父)に奪われていまします。
 
1549年、松平広忠の死後、今川義元は、本格的に三河への侵攻を開始します。そして、軍師、太原雪斎の働きもあり、三河に入り込んでいた織田を追い出して、織田信秀の子、信広を人質にし、織田側にとらえられていた竹千代(徳川家康)と交換することに成功します。
 
こうして、今川義元は、松平家の当主・松平家康(徳川家康)を人質として手に入れ、三河を勢力下に置くことに成功しました。
 
その後、今川義元は、嫡子の氏真に北条氏康の娘を娶らせて、北条氏とも親戚関係となります。
 
そうして、1554年、今川義元(駿府)・武田信玄(甲斐)・北条氏康(相模)の間で「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)」が成立したのです。

 

最期は「桶狭間の戦い」

 

 
1560年、今川義元は、2万5千といわれる大軍を率いて上洛する途中、桶狭間で織田軍の奇襲攻撃にあいます。(異説あり)
 
しかし、義元の周りを固める兵力は、実際には5,000~6,000人に過ぎず、織田軍との戦力は拮抗していたといわれます。
 
義元は、服部一忠を返り討ちにしましたが、毛利良勝によって組み伏せられ、討ち取られました。
 
このとき、輿(こし)を捨てて騎馬で応戦したとの記録があるので、馬に乗れなかったという俗説はあり得ません。(そもそも、彼は武芸も達者です。)
 

公家文化に精通していた

 
今川義元の母は、藤原北家出身の公家の娘でした。かなり高位の貴族です。
 
また、彼は、幼い頃から京の禅僧・太原雪斎に学び、都との人脈も豊富で、和歌や蹴鞠、公家言葉など、公家文化の高い素養がありました。
 
アニメやドラマでは、「桶狭間の戦い」で輿(こし)に乗ってあたふたと逃げる姿がコミカルに描かれることが多いですが、実は、当時、輿に乗って移動するのは、かなりの特権階級にしか許されていないことでした。
 
それに、義元は「海道一の弓の名手」といわれるほど、武勇にも優れていたそうです。

 

統治力も優れていた?

 
義元は、外交面では、隣国の甲斐や相模と同盟関係を築き、織田を退けて一時は三河を手に入れました。
 
では、内政はどうだったのでしょう?
 
義元は、地元の有力な武士を取り込んで、家臣の結束強化をはかるため、親子関係を模した主従関係を築く「寄親・寄子(よりおや・よりこ)制度」を定めました。
 
下剋上の乱世では、新たに領土を広げると新しく家来になる「新参者」が増えます。
 
これらの新規参入者は、代々の家臣と違い、都合が悪くなると容易に裏切る可能性があります。
 
ですから、徹底的に統制しないと危険なのです。
そのために、義元ら戦国大名が、導入したのが、「寄親・寄子制度」 でした。
 
この制度は、血のつながりが無くても、上層の家来と下っ端の家来を、親子のような関係を結ばせ、裏切るようなことがあれば連帯責任で罰するという制度です。
 
そうすることで上位の家臣が、下位の家来(足軽など)をしっかり見張り、裏切らないように教育するようになります。
 
他には、今川家の分国法「今川仮名目録」の追加法を制定して、検地を行い年貢の徴収を増やしたり、道路整備や商業の保護をしたりと、内政にも積極的に関わっています。

 

まとめ


 
以上が、今川義元の紹介でした。
 
思っていたより、ずいぶんとしっかりした武将だなと思えるのではないでしょうか。
どうも、信長アゲの「桶狭間の戦い」の敗戦イメージから、情けない印象が定着しすぎている感じがします。
 
ちなみに、白塗りメイクは、当時、他の大名もしていたので、特に強調されるのは、義元の印象を悪くするためのプロパガンダだと思われます。
 
義元は、「桶狭間の戦い」の頃には、家督を嫡男の氏真に譲っています。義元の母の寿桂尼は、なかなかの女傑で、義元亡き後も今川家のために、尽力した人として知られますよ。
 
● 幼い頃に仏門に出され出家している
 
● 京の都との人脈があり、公家文化に精通し、高い教養があった
 
● 「海道一の弓の名手」といわれたほど武芸にも秀でていた
 
● 外交では隣国と三国同盟を築いた
 
● 寄親・寄子制度、法整備、商業保護など内政にも力を入れた
 
● 「桶狭間の戦い」で、織田軍に敗れ討ち死にする

 

 
 

スポンサーリンク