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こんにちは。
 
「てんじんさん」で知られる「学問の神様」菅原道真
 
 
実在の人物なのに、神様になっちゃいましたね。
 
 
「なんで神様に!?」と思いますが、学問の神様になる前には、なんと「祟り神」としておそれられていたんです。
 
 
もともと、日本の神様は、恐ろしい面を持っています。
 
 
川や山の神様の怒りを鎮めるために、人柱を立てたりということはよくあった話で、「雉も鳴かずば撃たれまい」など昔話にもたくさん残っています。
 
 
では、秀才・菅原道真が宮廷ナンバー2の地位から転落し、祟り神→学門の神様となった経緯を、追ってみましょう!

 

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藤原氏の陰謀により左遷?

 

 
今も昔も、特に家柄のよくない人が高い地位につくと、周囲のやっかみが半端ありません!
 
 
菅原道真は、まさにそんな状況で、嫉妬の渦中で政務をこなしていたと思われます。まあ、政治家が足の引っ張り合いをするのは、全然珍しいことではないですけどね。
 
 
当時は、藤原氏がどんどん力を伸ばしてきていて、他の氏族を政治から締め出そうとする動きが活発だったんです。それを藤原氏の他氏排斥とよびます。他の氏族とは、奈良時代から朝廷に仕えてきた、小野氏や大伴氏、紀氏、壬生氏などです。
 
 
菅原氏は、もともと学者(漢学者)の家系でした。
 
 
そんな道真が、宇多天皇に気に入られてナンバー2の地位に就き、これまた秀才なのでなかなか頭が固かったのでしょう、煙たく思う人たちが多かったというのは、容易に想像できます。
 
 
ちなみに、ナンバー2というのは「右大臣」の地位です。そして、そのときナンバー1の「左大臣」は、藤原時平でした。
 
 
菅原道真は、宇多天皇に重用されますが、息子の醍醐天皇に代わると、状況が一変します。
 
 
醍醐天皇は、左大臣の藤原時平と近い間柄だったのです。そして、天皇への謀反の疑いありとの偽りの罪状で、菅原道真は、福岡県の大宰府に左遷されてしまいます。
 
 
当時は、謀反の疑いありという理由ではめられ、政争に敗れることは珍しくなかったんですよ。他にも、いろんな人が、同じような手口で失脚させられています。
 
 
では、なぜ道真だけが、その後に名誉を回復し、神様にまでなったと思いますか?
 
 
それはね、道真をいじめた人たちに、その後、次々とオカルト的な災厄が降りかかったからなんです。
 
 
菅原道真の経歴については、こちらを参考にしてください。(*‘∀‘)

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菅原道真の祟り

 

 
大宰府に左遷されて、2年後、菅原道真はその地で失意のまま亡くなりました。(903年)
 
 
それから、京の都では、災厄や天変地異が起こり続け、何年たってもぜーんぜんおさまりません。そして、なぜか菅原道真をいじめた人たちに、「祟り」としか思えないような災厄が、次々にふりかかったのです。
 
 
まずは、首謀者の1人・藤原定国が、41歳で急死します。(906年)
 
 
その2年後、藤原菅根(すがね)という人に、雷が直撃します。
 
 
実は、左遷が決まる前、菅原道真を救うために、宇多天皇が、息子の醍醐天皇に直訴しに駆けつけたことがあったのでした。
 
 
そのとき、宇多上皇の行く手を阻んで邪魔したのが、この藤原菅根なんですよ。その妨害のため、宇多天皇は間に合わず、道真の刑が決まったといわれています。
 
 
そのころから、これは、菅原道真の祟りではないかといううわさが広まり、首謀者たちは震えあがりました。
 
そして、翌年、一番の首謀者藤原時平(左大臣)が、菅原道真の祟りに怯えながら狂死してしまいます。
 
 
何があったのでしょうね?
気になります。
 
 
歴史の中の謎の1つに「狂死」ってのがあります。世界史の中の人物でも、ちょくちょくこの死に方をする人がいるんですけど、現代の死因名は何なのか教えてほしい。
 
 
その後も、源光が、狩りをしているときに、乗っていた馬ごと底なし沼にはまって行方不明になったり、醍醐天皇の皇子・保明親王(やすあきらしんのう)が21歳で急死するという災いが続きました。
 
 
保明親王の死後、皇太子になったその子の慶頼王(よしよりおう)は5歳で死亡します。当時、幼児の死亡率は、すごく高いので、たまたまなのだと思いますが、都の人たちには、もう「祟り」以外には考えられなかったのでしょう。
 
 
そして、この間、京の都は、台風がいくつもやってきて、洪水が起こり、その後、疫病が蔓延するという災厄続きのえげつない状態が続いていました。
 
 
菅原道真の死後、30年近くたっているのに、まだまだおさまる気配がありません。
 
 
なかなかしつこい恨みです。
 
 
おさまるどころか、ついに、930年、御所の要・内裏にある「清涼殿」に雷が直撃するというショッキングな事件が起こります。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン
 
 
「清涼殿」で朝の会議中、醍醐天皇はじめ多くの人が集まる中、左遷された道真の動向監視を命じられていた藤原清貫めがけて雷が落ちたのです。
 
 
清貫は、胸が張り裂けて即死。他にも多数の死傷者が出たもようです。
 
 
それを見た醍醐天皇が、ショックのあまり病気になり、3か月後に死亡してしまいました。
 
 
おもしろいのは、道真と仲が良く、大宰府にも励ましの手紙を送っていた首謀者・藤原時平の弟、藤原忠平が、この災厄から逃れられていることです。
 
 
忠平は、その後、左大臣、摂政、関白と上り詰め、長く政事に従事したのですよ。
 
 
そう考えると、本当に祟りだったのかもしれませんね・・・。(*´Д`)

 

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「学問の神様」に!

 

 
平安時代は、魑魅魍魎が当然のように信じられていた時代です。
 
 
雷による禍が多かったことから、菅原道真の魂は、雷の神「天神」になったのではないかと考えられたのです。それならば、神様としてしっかりお祀りしなければ、怒りが静まらないということですね。
 
 
そして、時平亡き後、道真と仲の良かった藤原忠平が、政事を取り仕切るようになったので、道真の子供たちを都に呼び戻したり、道真の名誉を回復してさらに高い地位を授与したりする動きを取りやすかったのだと思います。名誉回復は、迅速に行われました。
 
 
その後、「北野天満宮」が建てられ987年には、一条天皇の勅使が派遣されて、菅原道真には「天神」の神号が与えられました。
 
 
道真が、非常に優秀な学者だったことから、後に「てんじんさん」は、「学問の神様」となったのでした。
 
 

 

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