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こんにちは。
 
「応仁の乱」でもっとも悪名高いのは、なんと女性の日野富子です。
この人は、8代将軍義政の妻で9代将軍義尚の生母です。
 
 
実際に、彼女がやった悪行とは、どういうものだったのでしょう?
 
 
指摘される点は、3つありますよ!
 
 
1つ目は義政の乳母であり側室の今参局(いままいりのつぼね)を暗殺したこと、2つ目は後土御門天皇との熱愛疑惑、3つ目は民衆が飢饉にあえいでいたときに70億円ものぼろ儲けをしていたことです。
 
 
でもね、このうち、1つ目と2つ目は、今では単なる噂と考えられているのですよ。3つ目の理由に至っては、弁解のしようがなさそうですけど・・・。
 
 
彼女は、真の金の亡者で、私利私欲のためにだけ稼いでいたのでしょうか?

 
 

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高利貸しに相場操作「銭ゲバ伝説」は本当だった!

 

 
日野富子のもっとも悪評が高いのが、お金にまつわる話です。
彼女は、どういうわけか資産運営がすごく上手なのです。
先見の明があって、ちょっとうらやましいぐらいです。
 
 
彼女が稼いだお金は、現代では約70億円にものぼるそうですよ!!
 
 
当時、都は飢饉に見舞われていました。
一説によると、毎日500人もの人が餓死していたそうです。
 
 
その資産のほんの一部でも京の庶民のために使ってあげればと思ったアナタ、実は、富子は都の復興費として、寺社に私財を寄付し、京都御所の修繕費を出しています。また、焼け出された公家や諸侯を保護したり、炊き出しを行ったりもしているんです。
 
 
ただ、立場上、上流階級どまりなような感じですね。下層の人たちと直接関わることはなかったのでしょう。
 
 
これはもう、当時は身分が違うので、仕方のないことだと思います。藤原氏の血筋の御姫様ですから。

 
 

日野富子の4つのお金の稼ぎ方

 

 
大飢饉に見舞われていた社会で、富子は、一体どうやって大金を稼いだのでしょう。
 
 
それには、大きく4つの方法がありました。
 
 
(1)関所を設ける
 
 
富子は、地方から運ばれる物資を都に持ち込むときに通る、都の入り口「京の七口」に関所を作りました。
 
 
当時は、通行税はその土地の支配者が決めることができました。これで、都を出入りする人や物資から関税をとることができたのです。
 
 
(2)米の買占め
 
 
戦乱が続くと、きっと米相場が急騰するだろうと先読みした富子は、米を買い占めました。そして、価格が高騰したところで売り抜いて大儲けしたのです。
 
 
すごい資本主義的な投資法じゃないですか? 相場操作は良くない事ですが、資本に対する考え方が、現代的です。
 
 
(3)商人から税金を徴収
 
 
武士に酒を売る酒屋や高利貸しなど、大きく儲けている商人から税金を徴収しました。また、わいろや着服もしていたと言われます。
 
 
(4)大名への銭の貸付と訴訟介入
 
 
戦で物入りな大名たちに、高金利でお金を貸す高利貸しのようことをしていました。また、大名が所領の問題などで訴訟を起こした際、判決を有利にする見返りに、賄賂を受け取っていたといわれます。東軍・西軍にかかわらず働きかけていたところが、すごいビジネスライク。
 
 
拝金主義の鑑ですね。
 
 
こうして、彼女は、大名からも商人からもお金が流れてくる仕組みを作り、「守銭奴」と呼ばれるようになったのです。

 
 

意外にも、幕府や都の復興に私財を寄付していた

 

 
彼女の息子・足利義尚が9代将軍となっても、「応仁の乱」は収束しません。
「応仁の乱」は、将軍の後継問題だけが問題なのではなく、「多くの諸侯の御家争いの集合体」だったからです。京の都はすっかり荒廃して、多くの公家や武士が、家を失って路頭に迷いました。
 
 
そのとき、富子は貯め込んでいた財産の一部を使って、焼け出された公家や幕府の人々の救済に当てました。彼らを将軍御所に迎え入れて、食事や物資などを振舞ったのです。
 
 
また、戦乱を治めるために、始めから最後までもめていた西軍・畠山義就に1千貫(約1億5千万円)もの大金を貸し与えました。これは、金利で儲けようとしたのではありませんよ。
 
 
戦費がかさんで窮迫していた義就に、国元に帰る費用を与えて、早く戦を終わらせようという狙いがあってのことです。事実、義就は、すぐさま京の都から引き揚げ、所領の河内国に帰っていきました。
 
 
富子は、他の大名にも同様にお金を貸し与えます。そして、大名たちは、次々に自らの所領に戻り、1477年「応仁の乱」が収束したのです。
 
 
彼女は、その後も、荒廃した京の都を復興させるために、寺社などに多額の寄進を行っています。戦乱で焼け落ちた「朝廷の御所」の修復費用も、自分の財産から出しています。
 
 
しかし、義政には、銀閣を造園する際に、一切の資金援助をしませんでした。
 
 
当然ですね。
 
 
仕事(政務)をほっぽリ出して遊んでいる夫の趣味のために、苦労して貯めた自分のお金を出すなんてあり得ません。
 
 
こうしてみていくと、実際の富子は、決して私欲のためだけに金儲けをした金の亡者とはいえないと思います。反対に、室町幕府の財政面に大きく貢献したでしょう。

 
 

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夫とも息子とも不仲で、家庭には恵まれなかった

 

 
日野富子が幕政に口出しするようになったのは、実は、息子が将軍候補になってからです。
 
 
敵の義弟・義視の妻は、富子の妹の良子でした。
 
 
つまり、夫も妻も、どちらも兄弟姉妹という、血が濃すぎてドロドロしそうな関係だったのです。
 
 
身内の嫉妬や争いは、本当に怖いですよ。
他人同士より、ずっとずっと根深く怖ろしいものです。
 
 
夫といがみ合い、やっとのことで将軍にできた息子・義尚にも嫌われて、それでも尽くしますが、大酒のみがたたって義尚は25歳で亡くなります。
 
 
その後、富子は、かつての敵・義視の息子・義材を将軍に据えましたが、煙たがられて財産を没収され、幕政に口出しをするなと言われます。
 
 
怒った富子は、もう一度争い、別の近親者の義高を将軍につけることに成功しますが、義高は後見の畠山政元と手を結んで、富子に東山山荘から立ち退くように命じます。
 
 
彼女は、失意のうちに57年の生涯を閉じました。
 
 
って、どんだけ嫌われ者やねん・・・!
 
 
ここまで近親者に嫌われるってのは、よっぽど口うるさいおばちゃんだったんじゃないのと思ってしまいますが、この頃、幕政に携わる人たちは、どの家もこんな感じなんですよ。
 
 
親子兄弟が、醜い骨肉の争いをしていたのでした。
 
 
もう世の中が、主君と家臣だけでなく、子が親を滅ぼし兄が弟を葬る、「下剋上の価値観」に変わっているのです。
 
 
こんな時代に生まれてしまった彼女に、私はなんだか同情したくなります。
 
 
穏やかに生きることもできたと思いますが、それだけ勝気で負けず嫌いな女性だったのでしょう。
 
 
私なら、義政と一緒に幕政ほっぽりだして、東山の山荘でのんびり芸術鑑賞して暮らす、ダメダメ夫婦になりたいです。

 
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