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歴史上、美女と呼ばれる女性は、たっくさんいますが、なんだかスケールの違ういわれようの人がいますよ。
 
それが、今回ご紹介する小野小町です。
 
彼女は、平安時代に宮中で活躍した歌人です。
でも、美女とはいいながら、あまりに昔の人なので、容姿について確かな事は、はっきり分かっていません。
 
では、なぜ、それほど美女といわれているのでしょうか
面白いですね^^♪

 
 

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世界三大美女・小野小町

 

 
小野小町の凄いところは、日本の美女ではなく、「世界」の三大美女といわれているところです。
 
ちなみに、他の2人は、クレオパトラ楊貴妃だそうです。
 
でも、この「世界三大美女」、日本人から見たというのがつくようですよ。
小野小町は、外国人には、ほとんど無名の人物です。(笑)
 
 
小野小町の美しさは、どれほどだったのでしょう。
実際、当時の女性の美しさは現代人とは感覚が違うので、何とも言えませんね。
 
平安美人といえば、白い肌に豊かな長い黒髪、引き目で、ぷっくりほっぺにおちょぼ口という感じでしょうか。
 
クリッとした大きい目より引き目が美人だったという美的センスが、かなり今と違います。
 
また、当時の都人は、姿形だけでなく、着物の選び方やしつらい、文を出すときの文字の流麗さや選ぶ和紙、それに使う香りの選びかたまで、すべて含めて「美しい人」と呼んでいたともいわれます。
 
そういう意味だったら、小野小町はたいへん嗜みのある女性だったのでしょう。

 

小野小町と「六歌仙」

 

 
小野小町は、9世紀に宮中で活躍した歌人です。
平安前期のワイルドな秀才・小野篁(おののたかむら)の孫という説もあります。そうでなかったとしたら、近い親類だったでしょう。
 
小野小町は、本人についての記録はほとんどありませんが、たくさんの「和歌」が残っています。
 
彼女の作風は、とても情熱的かつ繊細です。
ロマンチックな恋愛感情を流麗に表す貴族らしい雅な歌が多く、紀貫之はじめ、後世の識者からも高く評価されているのですよ。
 
 
詳しい生没年は分かっていませんが、平安一のプレーボーイ・在原業平文屋康秀、良岑宗貞(後の僧正遍照)などと文のやり取りをしているので、同年代だとわかります。
 
ちなみに、今あげた小野小町も今書いた三名も「六歌仙」に名を連ねています。(残りは、喜撰法師と大友黒主)
 
4人とも後に称されるほどの歌人だったということですね。
ちなみに「六歌仙」を選んだのは、紀貫之です。
 
小野小町は、在原業平や文屋康秀とは、かなり仲のよい和歌仲間のようでした。
文のやり取りの内容が、とても気さくです。
 
でも、ちょっと考えてみると、彼ら、身分がまちまちなのですよ。
 
小野小町➾宮中の女房
在原業平➾高級貴族のモテ男
文屋康秀➾下級官吏
僧正遍照➾高級貴族(天皇の血筋)後に高僧、こちらもモテモテ

 
業平と康秀なんて、本来接点がなさそうですが、「和歌」という共通の趣味(特技?)でつながっていたのでしょうか。
 
ちなみに、全員、藤原定家の「小倉百人一首」に、選ばれています。
素晴らしい和歌ばかりなので、ちょっと脱線させてください。
 
「花の色は 移りにけりな いたずらに わが身よにふる ながめせしまに」
 (小野小町・9番)
「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 唐紅に みずくくるとは」
 (在原業平・17番)
「吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐というらむ」
 (文屋康秀・22番)
「天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」
 (僧正遍照・12番)
 
みんな有名な歌ですね♪
 
小町の歌は、今となっては身につまされるし(笑)
業平は、彼らしい色鮮やかな情景が目に浮かびます。
康秀はダジャレ?って感じですが、その通りです。
でも、漢字を分解してダジャレ風に歌う技というのがありました。
実は、かなり技巧的な歌なのです。
 
そして、最後の僧正遍照。
この和歌、私、すっごく好きなのです。
天女が舞い上がるようではないですか?(⋈◍>◡<◍)。✧♡
ロマンチックです。
この歌は、まだ彼が良岑宗貞と呼ばれていた頃、宮中の舞を見て詠んだ歌です。
 
 
 
ではでは、小町に戻ります。

 

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伝説になった小野小町

 

 
小野小町の話は、伝説になることで、能や歌舞伎の題目になり、江戸庶民に広まります。
 
もっとも有名な逸話は、「百夜通い(ももよがよい)」と呼ばれる伝説です。
 
あるとき、小町にしつこく求婚する深草少将(ふかくさのしょうしょう)という貴族の男性がいました。
 
小町は、男性の情熱は冷めやすいので、あなたが百夜続けて会いにきてくれたら、あなたの愛情に応えましょうと言います。
 
そして、深草の少将は、毎日毎日、小町のところへ通うのですが、後1日というところで、病で亡くなってしまうのです。それを聞いた小町は、悔いて嘆き悲しみ、それから少将の菩提を弔って過ごしたという話です。
 
この話には、百夜目に嵐で橋が落ちで少将がなくなってしまったという説や、少将が小町を追って小町の故郷・秋田まで行った話など、いくつかのパターンがあります。
 
また、深草少将=良岑宗貞(僧正遍照)という説もあります。
深草将校は、深草(京都の伏見あたり)に住んでいる少将という意味なのですね。
 
そして、「天つ風・・・」の和歌を詠んだ頃、良嶺宗貞は、そう呼ばれていたのでした。でも、彼は長生きしていますので、あくまでこの話のモデルだったということでしょう。
 
きっと、美男美女(しかも知り合い)をモデルにして、このような悲恋物語を創作したのでしょう。(*’▽’)
 

晩年は不遇だった?

 

 
小野小町は、晩年、容姿も色衰え、不遇だったという伝説も、いくつか残っています。でも、伝説の域を超えるものは、ありません。
 
なぜなら、晩年を過ごした場所も亡くなった場所も、お墓もの場所も、実は、正確にはわかっていないからです。
 
小野小町が、小野篁の孫なら、父の小野良真が出羽国(秋田県)で役人をしていたので、小町のふるさとは秋田で間違いないでしょう。
 
お墓は、秋田と京都以外にも複数あるといわれていて、本当のところはよく分かっていません。
 
ただ、秋田のお墓には、深草少将と2人のお墓があるそうですよ。
 
京都の山科は、小野氏の栄えた町なのですが、ここには小町の塚があります。

 

小野小町のまとめ

 

絶世の美女と呼ばれる小野小町。
平安初期の人物なので、分かっていることは少ないです。
 
彼女は、本人そのものよりも、伝説として残っています。
 
● 絶世の美女だった
 
● 平安初期に活躍した歌人
 
● 「六歌仙」に選ばれている
 
● 小野篁の孫といわれている
 
●「百夜通い(ももよがよい)」の伝説で有名

 

 

 

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