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戦国大名・浅井長政とお市(織田信長の妹)の間に生まれた三姉妹は、それぞれ数奇な運命をたどります。
 
豊臣秀吉の側室となり、世継ぎの秀頼を出産、「大坂夏の陣」で自害して果てた姉・茶々、3度目の結婚で徳川秀忠に嫁ぎ、江戸幕府二代将軍の妻となった三女のお江と比べ、次女のお初の一生は、あまり歴史の表舞台に立たなかったので、すごく地味ですね。
 
彼女は、いったい、どんな人だったのでしょう。
 
今回は、地味に見えがちな「浅井三姉妹」の次女、お初について、エピソードを交えて紹介します。

 

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2度の落城にあった浅井三姉妹のおさらい

 

 
お初は、浅井長政とお市の方の次女(浅井三姉妹)として生まれました。
 
浅井長政が織田信長に攻められて、小谷城が落城したとき、母や姉妹ととともに信長に引きとられます。
 
その後は、伯父の織田信包のもとで裕福に暮らせたようです。
 
その後、母・お市が、1582年に織田家重臣、柴田勝家と再婚し、淀殿は母や妹とともに北の庄城に移りますが、羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が対立します。
このとき母・お市は、城を落とされた勝家と共に自害しました。
 
三姉妹たちは城外に出て、秀吉の保護を受け、織田有楽斎の下、安土城に住みました。

 

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相思相愛の美男美女カップルだった?

 

 
1587年、お初は秀吉の命で、京極高次と結婚しました。
 
もともと京極氏は、南北朝時代に足利尊氏に仕えた名門の大名です。
それが、室町時代に六角氏と京極氏に分かれ、南近江と北近江を支配してきました。
 
「応仁の乱」の後、京極氏の家臣の中から台頭してきたのが浅井氏です。
ですから、京極と浅井は、かなり近い関係なのです。
 
高次の母は浅井長政の姉です。
母の名前は、京極マリア、そうキリシタンでした。
 
そして、京極高次は、実は、小谷城で生まれていて、お初とは、幼なじみの従兄でした。お初は、美形の高次に、幼いころからあこがれていたといわれます。
 
歴史ドラマでは、美男美女夫婦として描かれることが多いです。大河ドラマ「お江」では、お初が水川あさみさん、高次が斉藤工さんでした♥
 
高次には、当代一の美女と呼ばれる妹がいました。
 
それが京極龍子です。
 
彼女は、後に秀吉の側室・松の丸になり、秀吉は彼女にメロメロ(←古い)だったようです。その龍子(松の丸)が、お初を兄・高次の嫁にするよう秀吉に頼んだともいわれています。
 
ですから、お初は、完全な政略結婚ではなかったのでしょう。
彼女は、ものすごく嫉妬深いことでも知られますが、夫に恋をしていたならそれも納得です。
 
2人の間に、子供は生まれませんでした。

キリシタンだった!

 

 
お初の伯母であり、義母でもある京極マリアは、熱心なキリシタンでした。
 
マリアは、キリスト教の信仰が厚く、布教活動も活発だったので、身内の布教にも熱心そのものでした。
 
京極マリアの子供2男3女のうち、洗礼を受けなかったのは、長女の龍子(松の内)だけです。
 
龍子は、キリスト教が認めない側室という立場でもあったのですが、彼女が秀吉の側室になったのは、弟・高次を救うためでもあったので、いわば、京極家の恩人です。
 
マリアとは、ずっと親しい関係でいたようですよ。
 
そして、お初も洗礼を受け、後に夫の高次もキリシタンとなりました。
 
ただ、彼らは、徳川政権下での弾圧に、真っ向から逆らわなかったようで、特に、処分されていません。
初も、夫の死後は、形の上では、「常高院」という尼になっています。
 

夫は「ホタル大名」?

 

 
お初の夫、京極高次は、名門ですが戦国大名にしては天下を望まない武将でした。
 
「本能寺の変」では明智方についてピンチに陥ったり、その後もいろいろ危機に瀕するのですが、その度に、妹・龍子や妻・お初の力で救われました
 
高次は順調に出世しますが、それは自身の功ではなく、妹や妻の七光りだと揶揄され、陰で「ホタル大名」とささやかれました。
 
いつの世にも、出世すると男の嫉妬やひがみを受けると思うと、気の毒です。(^_^;)
 
実際には、近江国の支配を順調に進めたい豊臣家にとって、もともとこの地の支配者・京極氏が治めるのが、もっとも相応しく、利があったのです。
 
1600年、関ケ原の戦いでは西軍につくと見せかけて東軍につき、5倍の兵力の敵を相手に奮闘します。しかし、琵琶湖の畔の低地に位置する大津城は、守りに弱く、とうとう持ちこたえることができませんでした。高次が降伏・開城した日が、9月15日、関ケ原の戦いの当日でした。
 
高次は、一旦、出家して高野山に籠りますが、西軍の勢力削減に奮闘したことを、家康に高く評価され、大名に復帰して石高の大幅加増もされました。
 
ただの「ホタル大名」では、こういう乗り切り方は、できなかったでしょう。
見事に国を守りました。

 

夫の死後、姉妹のために奔走

 

 
夫・高次の死後、お初は、髪をおろし「常高院」となります。
 
2人の姉妹に比べて、地味な印象のお初ですが、関ケ原の戦いの後、しばらくすると、姉(豊臣家)と妹(徳川家)の家が争う状態になってしまいます。そのとき、お初は、仲を取り持つため力を尽くすのです。
 
彼女は、仲立ちをするには、最適の人物でした。
 
子供がいなかった彼女は、姉の娘を養女にしていましたが、ここで妹の娘も養女にするという外交的なバランス感覚をみせるのです。お江が生んだばかりの女の子を養女に迎え、しかも、自分と同じ名前「初」と名付けてました。
 
そして、なぜか、彼女は、徳川家康と馬が合ったようで、豊臣方だけでなく、徳川方の使者としても活躍するのです。
 
お初の長所は、徳川家康に好かれているのに、徳川家に媚びるだけの世渡り上手なだけではなく、きちんと姉の豊臣家のことも想っているところでしょう。もしかしたら、家康はそういう女性だから、気に入ったのかもしれません。
 
彼女が、もっとも歴史の表舞台に立つのは、1615年の「大坂夏の陣」の直前でした。
 
家康に追い詰められた淀殿がお初を使者として家康に詫び、家康からの和睦の条件を申し伝えるという仲立ちをしたのでした。
 
伝達係として何度も行き来しているうちに、徳川からの総攻撃が始まってしまいました。このとき、お初は大坂城にいたのですが、なんとか脱出に成功します。
 
家康は、お初を心配して、迎えの者をつかわしたそうですよ。
 
お初は、その後、京極家の江戸屋敷でゆったり老後を過ごし、妹・お江にも何度か会ったそうです。
 
そして、63歳の生涯を閉じます。

 

お初のまとめ


 
それでは、お初について、最後にまとめます。
お初は、夫が凄い権力者でなかっただけに、三姉妹の中で、もっとも自分の意志で政治的に動けた人です。
 
そういう意味で、評価されているのでしょう。(´・ω・)
 
でも、なんだかんだ言って、3姉妹の中でもっとも多く落城を経験しているのは、このお初です。4度の落城にあい、そして、生き残っています。
 
子供の頃に、小谷城北ノ庄城、関ケ原の戦いでは夫と共に大津城を、そして、大坂夏の陣で姉と一緒に大阪城にいました。
 
●夫は従兄弟で幼なじみ
 
●夫に恋をして、嫉妬深かった
 
●キリシタンだった
 
●「夫」「姉」「妹」のために奔走した
 
●徳川家康にも好かれていた

 
 
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