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歴史の中でも、戦国武将は人間的に人気のある人が多いですが、なんといっても、その筆頭はこの人
 
織田信長でしょう~~!(≧◇≦)
 
私は、今はどっちかというと上杉謙信ラブ♥なんですが、若い頃は、信長が1番でしたね。
 
どこに魅かれたかというと、それはこの人の二面性です。
 
豊臣秀吉のように、身分の低い人も優秀であれば引き立て
松永久秀みたいなとんでもないヤツにも、なぜかかなり寛大
 
かと思えば、延暦寺や一向宗にしたような残虐な仕打ちの数々
 
伝えられているのは、もちろんたくさんたくさん脚色された信長像ですが、多面的な性格をしていそうで、すごく興味深いです。
 
今回は、一般的に知られているエピソードから、織田信長の性格を考えてみます。

 

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織田信長の良かったところ!


 
織田信長の良かったところは、
 
● 新しい物をためらわずに取り入れる
● 柔軟な考え方ができる
● 思ったことを即実行できる
 
あたりかなって思います。

 

身分に関わらず優秀な人材を採用した

 
織田信長は、自分が気に入った者、優秀だと思う者は、身分に関係なくどんどん取り上げました。
 
一番有名なのは、豊臣秀吉でしょうね。
 
足軽だった秀吉や忍者だった(?)とういわれる滝川一益など、優秀な人材は、どんどん家臣に採用しています。足軽はもちろんのこと、今、人気のある忍者は、当時、武士からは蔑まれていたんですよ。
 
また、若いころから、町中に繰り出して遊んでいたこともあり、庶民と交流するのにも積極的でした。安土城を公開して、多くの庶民を招いたり、祭りのとき、庶民と一緒に踊り騒いだりしたエピソードが残っています。
 
相撲好きとしても有名な人で、かなり本格的な「相撲大会」を開いています。
この相撲エピソード、漫画「信長協奏曲」にも出てきました。
かなり、有名な逸話なんですね。
 
度々開かれた「相撲大会」は、単に信長と家臣をつなぐコミュニケーションだっただけでなく、優秀な力士は家臣に迎えられたり、家臣だった場合は土地などをもらえたりする、「立身出世の場」でもあったようなのです。
 
例えば、力士から家臣になった堀秀政は、後に大名になりました。
 
気に入られたら出世できるかもとあっては、みんな真剣でしょうね。
面白い大会だったと思います。

 

気に入った人にはとっても寛大

 

 
織田信長は、当時の武士の常識に、あまりとらわれない人です。
 
「こうあるべき」より「こうしたい」という自分の意思や感情に素直に従っているところが、すごく共感できます。
 
身分の低い人を取り上げたエピソードだけでなく、自分を裏切った者にも、人によって、また状況によって、なぜかとても寛大な処置をしているときがあるのです。
 
信長は、父の亡き後、弟の信勝と家督争いをしていた時期がありました。
柴田勝家などは、実はそのとき、弟の信勝側についていたのです。
 
ですが、残虐非道の信長像からは想像できないくらい寛大に、なぜか、許しています。
柴田勝家が優秀なのでまだ必要と思ったのもあるでしょうけど、人間的な相性もあるのかとか思ってしまいます。
 
もっと、「え~~っ!」と思うのは、松永久秀です!
 
この人は、もうとんでもないなんだかよく分からん「下剋上の申し子」のような人で、とにかく、常識の通用しない変な人です。でも、私のかなり好きな武将なので、ちょっと詳しく書かせてもらいます。
 
松永久秀は、信長より20歳ほど年上で、「戦国の梟雄」と悪人認定されている人です。
この人の三大悪事というのがありまして、それがこちら
 ↓  ↓   ↓
「主君三好氏の暗殺」・「将軍暗殺」・「東大寺焼討」
 
半端ないスケールの悪事です。
 
多分、信長は、内心「こいつ、すげーっ!」と、思っていたでしょう。
他にも、茶道の造詣が深く、素晴らしい茶道具コレクションを持っていて、築城の名人(高いデザイン力有)という、信長が一目置く点が、いろいろあったんですね。
 
松永久秀は、信長の命を2度破るのですが、どちらも許しています。
そして、3度目も、信長が欲しかった「平蜘蛛の茶釜」を譲れば許すと言っていたのに、それに背いて茶釜と共に爆死して果てました。
 
彼は、今でも日本で初めて「爆死した人」と認定されています。(笑)
 
信長が許したり寛大だったりした人を調べると、やはり、かなり優秀でそばに置きたいと思った人や、一目置いていた人に限るのかなと思えますね。
 
みんなに寛大では、戦国武将は務まりませんから。

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新しい物をどんどん取り入れる

 

 
信長は、今まで誰もやったことのない事をしたり、新しい輸入物(南蛮物)を取り入れたりする姿勢が際立ちます。
 
宣教師が持ってきた地球儀の説明を聞いて、それまで日本では地球は平面というのが常識だったのに、地球は丸いと理解できたとか、カステラや金平糖を食べていたとかいう逸話が残っています。
 
桶狭間の戦いの奇襲攻撃や長篠の戦いなど、戦に「鉄砲」を持ち込んだエピソードは、非常に有名ですが、この新しい物を躊躇せず受け入れる姿勢は、戦術や武器だけにとどまらず、街道を整備し楽市楽座を設ける、キリスト教を容認するなど、様々な分野で見られます。

 

信長の残念なところ

 

 

ワンマンで自己中心的

 
織田信長のイメージは、まさにコレですね。
ワガママで自分の考えを貫く所、ただ、その発想が光っているので、うまくいくことが多かったのです。
 
とにかく、自意識過剰の自信家で、自分がこうだと思ったら、家臣の意見を聞かな逸話がいっぱいあります。
 
特に、最愛の人、生駒吉乃が病死してからは、周りを見る余裕がなくなったのかと思えるほど、天下取りへと邁進します。
 
もう少し、家臣に気を配っていれば、もっと長生きできたかもしれないと思ってしまいますね。

 

嫌いな家臣・使えない家臣には超厳しい!

 

 
自分の気に入った家臣には寛大だった信長ですが、一方で、気に入らない人は徹底的に叩き潰すという、気持ちいいほどの残虐性を表します。
 
妹・お市の夫・浅井長政が信長に背いて敗れ、自害したとき、信長が3つの髑髏(どくろ)に金箔をはった盃で、酒を飲んだというエピソードがありますね。
 
髑髏は、越前の朝倉義景、近江の浅井久政長政親子のものです。
 
これは半分史実で、半分は後世の創作(ウソ)のようです。
 
信長は、3つの髑髏に金箔を貼って、飾っていたのでした。
 
当時は、このように骨を飾ることに鎮魂の意味があったので、どちらかというと死者を想ってやったことなのです。
 
つまり、これを残酷エピソードとして広めたのは、信長の残虐性を際立たせたかった後世の情報操作なのですね。
 
ちなみに、この浅井長政とお市、子供が男子1人・女子3人で、女の子は助けられています。
それが、あの浅井三姉妹「茶々・お初・お江」です。
 
もう1つ、信長を表すヒールっぽいフレーズに、「第六天魔王」というのがあります。
なかなか、かっこいい言葉ですね。
 
この言葉が生まれたのは、、比叡山焼き討ちの際で、出典は宣教師「ルイス・フロイスの書簡」です。
 
比叡山を焼討したとき、当時の延暦寺座主・覚恕法親王(かくじょほうしんのう)は、難を逃れて、甲斐の武田信玄の元へと逃げて、かくまってもらいます。
 
そのとき、信玄は信長をいさめるために、自分のことを「天台座主沙門信玄」のと書いて書状を送ったのです。「天台座主沙門」というのは、天台宗の代表で、修行中の身だよという意味です。
 
それに対する返信の書状に、信長が著名したのが「第六天の魔王信長」という名でした。
 
つまり、この言葉は、信長が自分は「第六天魔王」だと、家臣の前で公言したものなのではなく、武田信玄への手紙の返事に、ブラックなユーモアを交えて返したものだったのですね。
 
それが、後世に信長像を表すのにぴったりな言葉だと思われ、この言葉だけが独り歩きしてしまったのでしょう。
 
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