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織田信長は、戦国武将の中でも知名度が抜群で、いろんな逸話が伝わります。
 
 
その中には、「比叡山焼き討ち」に見られる残酷なものの他、秀吉の妻・ねねから夫の浮気のグチを聞いてあげるような思いやりあふれるエピソードも残っています。
 
 
今、私たちが伝え聞いているものの多くは、ポルトガル宣教師「ルイスフロイスの書簡」に残されたものです。
 
 
ということは、ルイス・フロイスの主観が盛り込まれた信長像ということになりますね。
 
 

 

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織田信長の長所は斬新さ!


 
織田信長の良かったところを簡単にまとめると、こうなります。
     ↓
・因習を打破できる合理的思考
・思ったことを即実行する行動力
・新しい物を取り入れる柔軟性

 

 

身分に関わらず優秀な人材を採用する合理的発想

 

織田信長は、自分が気に入った者、優秀だと思う者は、身分に関係なくどんどん取り上げました
 
 
一番有名なのは、豊臣秀吉ですね。信長に見出されたことが、天下人への道を進むきっかけになりました。
 
 
足軽だった秀吉や忍者だったともいわれる滝川一益など、優秀な人材をどんどん家臣に採用しています。忍者は当時、お金で仕事を請け負う傭兵だったので、武士から蔑まれていました。それでもおかまいなしです。
 
 
また、織田信長は若いころから、町中にくりだして遊んでいたことが多く、一般庶民と交流するのも積極的でした。安土城を公開して多くの領民を招いたり、お祭りのときに領民たちと一緒に踊り騒いだエピソードが残っています。
 
 
彼は相撲好きとしても有名で、かなり本格的な「相撲大会」を開いています。
 
 
たびたび開かれていた「相撲大会」は、ただ単に信長と家臣をつなぐコミュニケーションの場だったのではなく、優秀な力士は家臣に迎えられることがあり、家臣が勝者の場合は土地などがもらることもありました。つまり「相撲大会」で勝つことが、「立身出世の1つの道」でもあったのです。
 
 
例えば、力士から家臣になった堀秀政は、後に大名にまで出世しています。
 
 
気に入られたら出世できるかもしれないとなれば、だれもが真剣に勝負しますね。きっと、おもしろい大会になったと思います。

 
 

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気に入った人にはとても優しくファンを作った

 

 
織田信長は、当時の武士の常識にあまりとらわれない人でした。
 
 
「こうあるべき」より「こうしたい」という自分の意思や感情に素直に従っているところが、すごく共感できます。
 
 
身分の低い人を取り上げたエピソードだけでなく、自分を裏切った者にも、人によってまた状況によって、なぜかとても寛大な処置をしています。
 
 
信長は、父親が亡くなったとき、弟の信勝と家督争いをしました。後に織田家の筆頭家臣となる柴田勝家は、実はそのとき弟の信勝側についていたのです。
 
 
このとき、なぜか信長はとても簡単に勝家を許しています。
 
 
もちろん、柴田勝家が優秀だったのでまだ必要な人材だと考えたのでしょうけど、人間的な相性もあったかもしれません。
 
 
もっと、謎なのは松永久秀です。
 
信長は、人によって寛大だったり冷たかったりするので、やはり人の好き嫌いが激しかったと思われます。
 
 
松永久秀は「下剋上の申し子」のような人で常識の通用しない変な人だったのですが、すごく興味深い人です。きっと信長はかなり気に入っていたのでしょう。
 
 
松永久秀は、信長より20歳ほど年上で、「主君三好氏の暗殺」「将軍暗殺」「東大寺焼討」という3つのスケールのでかい悪事を働いたため、「戦国の梟雄」と悪人認定されています。
 
 
信長は、この3大悪事をやってのけた久秀に内心「すげーっ!」と思っていたかもしれません。
 
 
他にも、松永久秀はかなりの教養人で「茶道」の造詣が深く素晴らしい茶道具コレクションを持っていたり、築城の名人(高いデザイン力有)でもあった多才な武将でした。信長が一目置くツボを、いろいろ押さえてる人だったんですね。
 
 
松永久秀は、信長の命を2度破ったのですが、そのどちらも許しています。
 
 
そして、3度目に裏切ったときも、信長は前から欲しいと思っていた「平蜘蛛の茶釜」を自分にゆずれば許してやると伝えたのです。
 
 
でも、松永久秀は、それを拒否して「茶釜」と共に爆死して果てたと伝わります。(異説あり)
 
 
彼は、今も「日本史上初めて爆死した人」と認定されています。
 
 
信長が寛大な処置をした人を調べるていくと、やはり、かなり優秀でそばに置きたいと思った人や、一目置いていた人がほとんどです。
 
 
合理的思考のできる人ですが、意外と対人関係は感情的だったのかもしれません。
 
 

 

新しい物をどんどん取り入れる

 

 
信長は、今まで誰もやったことのない事をしたり、新しい輸入物(南蛮物)を取り入れたりする姿勢が際立ちます。
 
宣教師が持ってきた地球儀の説明を聞いて、それまで日本では地球は平面というのが常識だったのに、地球は丸いと理解できたとか、カステラや金平糖など輸入した南蛮菓子食べていた逸話が残っています。
 
 
「桶狭間の戦い」の奇襲攻撃や「長篠の戦い」で戦に「鉄砲」を持ち込んだエピソードは、とてもよく知られています。
 
 
こういう新しい物をためらわずに受け入れる姿勢は、戦術や武器だけにとどまらず、街道を整備し楽市楽座を設ける、ヨーロッパの文化を取り入れるなど、様々な分野で見られます。

 

信長の短所はやはり残虐非道なところ?

 

 

ワンマンで自己中心的・説教嫌いだった

 
織田信長のイメージは、まさにコレですね。ワガママで自分の考えを貫く所、ただ、その発想が光っていたので、うまくいくことが多かったのです。
 
 
とにかく、自意識過剰の自信家で、自分がこうだと思ったら家臣の意見を聞かなかったという逸話がたくさん残っています。
 
 
特に、「織田信長=ワンマンブラック社長」なイメージ作りに貢献したのが、ポルトガル宣教師ルイス・フロイスです。彼は日本で出会ったいろんな人について、主観を込めまくった評価を残しています。
 
 
そのルイスフロイスが、信長について書いているのがこちらですよ。
   ↓
「傲慢で神をも恐れぬ人物、名誉を重んじることこの上なし。決断を内に秘め、軽々しく外に表すことがなく、戦術も巧みだ。戦術を立てる際に部下の進言を聞き入れることは滅多にない。」
 
 
「他人のアドバイスは、基本聞かない」という姿勢ですね。ちなみに若造のころから、親父連中の「説教」が大嫌いだったそうです。
 
 
信長は現代人のように合理性を重視していたので、神仏をわりと軽視しています。宗教というのは、「救い」を盾にとって人のマインドを操作するうさん臭い性格を持つ面がありますからね。
 
 
織田信長は自分と意見の合わない者、古臭い因習を固持する者、約束や規則を破る者が大嫌いだったようです。とくに、嫌いな人への憎悪や裏切った人への恨みは、一性根に持って徹底的にたたきました。
 
 
信長が残虐性を増していったのは、浅井長政に裏切られてからです。
 
 
信長は妹・お市を嫁がせた浅井長政を、自分の腹心のように信頼していたそうです。なのに、裏切られて、しかも「金ヶ崎の退き口」では、かなりやばい状態で命からがら落ち延びました。
 
 
「裏切者は一生許さん!!!」ですよ。
 
 
浅井長政にも、それなりの事情があったのですが、自分より朝倉を取るのかという思いだったのでしょう。
 
 
それから、「比叡山延暦寺」の焼き打ちや「伊賀の里」(天正伊賀の乱)のなで斬りなど、女子供も容赦ない殺戮を繰り返していきました。
 
 
「どうせやるなら、とことんやってやる!」になってますよ。

 
 

嫌いな家臣・使えない家臣には超厳しい!

 

 
自分の気に入った家臣には寛大だった信長ですが、一方で、気に入らない人は徹底的にたたきのめすという、気持ちいいほどの残虐性を表します。
 
 
でも、信長の残虐エピソードとして伝わる2つの有名な逸話は、実は後世の人にねじ曲げられて創作されたのなのですよ。
    ↓
「浅井・朝倉のドクロ盃で酒を飲んだエピソード」「我は第六天の魔王なりと言ったエピソード」です。
 
 
妹・お市の夫・浅井長政が信長に背いて敗れ、自害したとき、信長が3つの髑髏(どくろ)に金箔をはった盃で、酒を飲んだというエピソードがありますね。
 
 
髑髏(どくろ)は、越前の朝倉義景、近江の浅井久政長政親子のものでした。
 
 
これは半分史実で、半分は後世の創作(ウソ)のようです。
 
 
信長は、3つの髑髏に金箔を貼って、飾っていたのでした。
 
 
当時は、このように骨を飾ることに鎮魂の意味があったので、どちらかというと死者を弔ったともいえるのだそうです。
 
 
つまり、これを残酷エピソードとして広めたのは信長の残虐性を分かりやすく際立たせるための後世の作り話なのでした。
 
 
ちなみに、浅井長政とお市の間には子供が男子1人・女子3人いたのですが、女の子は助けられています。
 
 
それが、あの超有名戦国セレブ姉妹の浅井三姉妹「茶々・お初・お江」です。
 
 
もう1つ、信長を表すヒールっぽいフレーズに、「第六天魔王」だったというのがあります。ダークサイドに落ちてる感のあるなかなかかっこいい言葉です。
 
 
この言葉が使われたのは比叡山焼き討ちのときで、出典は宣教師「ルイス・フロイスの書簡」です。またこの外人ですよ。
 
比叡山を焼討したとき、当時の延暦寺座主・覚恕法親王(かくじょほうしんのう)は、難を逃れて、甲斐の武田信玄の元へと逃げて、かくまってもらいました。
 
 
そのとき、信玄は信長をいさめるために、自分のことを「天台座主沙門信玄」のと書いて書状を送ったのです。「天台座主沙門」というのは、天台宗の代表で、修行中の身だよという意味です。
 
 
それに対する返信の書状に、信長が著名したのが「第六天の魔王信長」でした。
 
 
つまり、この言葉は、信長が自分は「第六天魔王」だと家臣の前で公言したものなのではなく、武田信玄への手紙の返事にブラックユーモアを交えて返したものだったのです。
 
 
それが、後世に信長像を表すのにぴったりな言葉だと思われ、この言葉だけが独り歩きしてしまったのです。伝承はいい加減なものと分かります。
 
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