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徳川家と豊臣家が東西に分かれて争った「関ケ原の戦い」は、天下分け目の戦いといわれます。
 
本当に、この戦いで、ほぼ天下が徳川家のものとなりました。
(「大坂の陣」という、もうひと悶着がありますが。)
 
でも、この戦いは、裏切者が続出、やる気のない大名が続出、しかも、6時間ほどで決着がついたという、なんだかぐだぐだな戦いでもありました。
 
ここでは、その「関ケ原の戦い」の勝敗が決した「原因」を中心に、書いていきます。

 

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関ケ原の戦いは、あの2人の権力争い?

 
 
関ヶ原の戦いは、1600年、岐阜県・関ケ原で起こった戦いです。
 
豊臣秀吉の死後、嫡男の秀頼が幼かったため、天下支配の実権を握ろうとする争いが起こります。
 
そして、徳川家康と石田三成の争いが本格化し、全国の大名がその二勢力に分かれて参加した大きな戦いでした。
 
徳川軍が東軍、石田軍が西軍です。
そして、当初の兵力は、東軍が88000人、西軍は85000人と、ほぼ互角でした。
 
長期戦になるのではと思われた野戦でしたが、ふたを開けると、数時間で決着がついたという、たいへんあっけないものでした。

 

秀吉亡き後の政治体制

 

 
そもそも、関ヶ原の戦いはなぜ起こったのでしょうか。
 
きっかけは、豊臣秀吉の死にさかのぼります。秀吉の死後、その子供・豊臣秀頼が幼かったため、石田三成を中心にした「五奉行」と徳川家康を中心にした「五大老」という二つのグループによって政治が行われるようになりました。

 

★豊臣五大老
 
各地方の有力者
 
●徳川家康(関東地方)
●前田利家(北陸地方)(関ケ原の合戦時は故人)
●毛利輝元(中国地方西部)
●宇喜多秀家(中国地方東部)
●上杉景勝(北陸地方北部)

 

★豊臣五奉行
 
豊臣家で政務を取り仕切っていた豊臣家の上層部の人間。
 
●石田三成(筆頭)
●増田長盛
●浅野長政
●前田玄以
●長束正家

 
この「五大老」と「五奉行」のそれぞれの筆頭、徳川家康と石田三成が、反目し合うのです。
 
まず、最も力を持っていた徳川家康が、天下を取るために、政略結婚や豊臣方の武将の懐柔を行うようになります。伊達家の娘との婚姻や、加藤清正や福島正則など石田三成と不仲だった武闘派を取り込み始めるのですね。
 
これはやばいと思った石田三成は、このままでは家康に、天下を乗っ取られると考え始めます。
 
家康と三成の対立は、どんどん深まっていき、三成と親しい間柄だった上杉景勝を征伐するという家康の動きをきっかけに、関ヶ原の戦いへとつながるのです。

 

西軍はやる気のない武将が多かった

 

 
関ケ原の戦いのころ、上杉討伐のため伊達軍、最上郡は東北地方で戦っていました。また、徳川秀忠の軍は、真田親子に阻まれていて、間に合いませんでした。ですから、これらの軍(上杉軍、伊達軍、最上軍、秀忠軍)は、関ケ原では戦っていません。
 
関ケ原に集まった大名たちの軍も、思惑はバラバラでした。
 
例えば、島津義弘は、当初、東軍として参加するつもりだったのに、行き違いがあり仕方なく西軍として参加しています。そんないい加減な感じでいいの?と思いますが、多くの大名が、どっちの味方をしようかと悩んでいた状態だったのです。
 
みんな自分の家が第一なので、勝つ方に味方したかったのですね。
 
お家安泰を第一に考えると、力のありそうな徳川家康のほうが有利と考えるのも納得です。
 
関ケ原の頃は、戦国時代末期で、もう名だたる戦国ヒーローたち、織田信長、武田信玄、上杉謙信、毛利元就などは代替わりしてました。
 
そして、一方の石田三成は、かなりの嫌われ者です。
豊臣家の武闘派に嫌われているだけなら、お家の事情と思えるのですが、外部の人間にも、かなり嫌なヤツと思われていたようです。
 
人徳のない人がトップに立つのは、いつの世も厳しいものです。

 

関ケ原の戦い開幕

 

 
1600年9月15日、戦いは夜明けに始まりました。
 
まず、東軍の先鋒隊・福島正則の軍(豊臣家の家臣だったけど石田三成が嫌いで東軍に)と、西軍の宇喜多秀家の軍が衝突しました。

 

(1)島左近の負傷

 
それから、東軍は、石田三成が大嫌い、または恨みを持つ武将たち、細川忠興、黒田長政、加藤嘉明らの軍が攻撃を開始します。
 
細川忠興は、関ケ原のすぐ前に石田三成によって、妻・ガラシャを死に追いやられていました。
 

戦国美女・細川ガラシャの悲劇的な最期と美しい「辞世の句」を紹介

 
石田軍の本陣には、勇将・島左近がいましたが、早々に鉄砲の銃撃を受けて負傷してしまいます。
 
島左近の戦線離脱は、西軍にとってかなりの痛手でした。

 

(2)島津隊、動かず!

 
 
石田三成は、本陣の近くに布陣しながら、まだ戦闘態勢に入っていなかった島津義弘の軍に攻撃を要請します。
 
島津義弘率いる薩摩の「島津軍」は、勇猛果敢で全国に名をとどろかせていました。しかし、島津軍は進軍要請を拒否します
 
もともと、島津義弘は、東軍に参加するために出発していて、成り行きで西軍に参加したようなものでした。
 
その上、1500の兵しか連れていなかったので、石田三成ら西軍首脳陣に軽く扱われます。また、合戦前夜に夜襲しようという策も却下されて、石田三成の態度に嫌気をさしていました。
 
ですから、島津義弘は、まだ討って出るときではないとつれない返事をします。
自分自身で決断して、島津軍として納得のいく戦いをしようという気持ちだったのでしょう。

 

(3)毛利隊も、動かず!

 
 
島津隊に要請を蹴られた石田三成は、次に徳川隊の後方に10000の大軍を率いて布陣していた毛利隊に、進軍を要請します。
 
毛利隊は、名目上の「西軍の総大将」毛利輝元の命で集まった部隊で、要請を聞き入れ進軍しようとしました。
 
しかし、なぜかここで配下の吉川広家の部隊が、突然東軍に寝返ったのです。
 
毛利軍は、もともどちらに味方するか上層部の意見が分かれていて、そこを徳川家康につかれたのです。家康は、寝返ったら領土を保障するという約束を、吉川広家に取り付けていたのでした。
 
同士討ちになるのは避けたかった毛利の本隊は、結局動けませんでした。
進軍要請への返事は、「お弁当を食べているから無理~!」という、なんともふざけた言い訳でした。
 
結局、毛利家は西軍の総大将なのに、何1つ戦いに貢献しませんでした。

 

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(4)小早川秀秋の寝返り!

 

 
島津隊に続いて毛利隊も動かなかったので、石田三成は、次に、関ヶ原の側面、松尾山に布陣している小早川秀秋に進軍を要請します。
 
関ケ原の戦いの中で、この「小早川秀秋の寝返り」は、よく知られています。
 
小早川秀秋は、もともとねね(北政所)の甥で、一時は豊臣家の世継ぎ候補でした。でも、秀頼が生まれてから、邪魔になったのか、小早川家に養子に出されたのです。
 
小早川家は西軍の総大将・毛利家の家臣なので、もちろん彼は、西軍として参加するべき人物でした。
 
しかし!
 
小早川秀秋は、石田三成が、大大大っ嫌いだったのです!
 
なぜなら、秀秋の朝鮮出兵のときの失態を、石田三成が豊臣秀吉に詳細に報告したため、彼は秀吉にめっちゃくちゃ叱られ、領地も没収されてしまったのでした。(武闘派の他の人たちの恨みも、朝鮮出兵時の言いつけが多い)
 
そして、ビビりの彼が困っていたのを助けてくれ、秀吉との仲を取り持ってくれたのが、徳川家康だったのです!
 
本人の気持ち的には、断然、家康(東軍)につきたかったでしょうね。
もちろん、家康からは、こちらに味方してねとラブコール(使者)を送られています。
 
つまり、小早川秀秋にも、それ相応の事情があり、当日まで悩んでいたと思われるのでした。
 
戦闘が始まって数時間経っても、小早川秀秋は、もじもじと迷っていました。それにしびれを切らした徳川家康が、ついに小早川秀秋の部隊に鉄砲隊を向けて、脅しの一斉射撃をします。(ここは、徳川方による後世の創作という説あり)
 
これにビビった秀秋は、腹をくくって、約15000の大軍勢を率いて寝返り、目の前にいる西軍の部隊に襲いかかったのです。
 
びっくりな事件ですが、実は、これを西軍の大谷吉継は、予想していました。
 
ですから、小早川秀秋が寝返ったときに、対抗できる位置自分の隊を布陣していたのです。
 
しかし、寝返ったのは、小早川秀秋だけではありませんでした。
 
大谷隊と共に小早川隊を抑えるはずだった他の西軍武将たちも、つぎつぎに東軍に寝返ってしまったのでした。
 
大谷吉継の軍は、全方位を包囲され、集中攻撃を受けて壊滅してしまいます。吉継も、ここで壮絶な最期を遂げました。
 
大谷吉継については、こちらの記事をどうぞ。

 

大谷吉継の病気は何だったの?関ケ原に散った義に厚い白頭巾の武将

 
なんだか、戦いが始まる前から徳川家康の手紙攻撃(情報戦)で、負けが決まっていたようなものですね。
 
小早川秀秋の軍勢は寝返った味方と(東軍)と共に、そのまま西軍の側面を進撃し、「関ヶ原の戦い」の優劣は、ここでほぼ決しました

 

戦いの終焉

 
 
西軍に兵を動かさないものや寝返るものが続出し、前線では、とうとう石田隊と宇喜多隊が瓦解し始めます。
 
そして、その2隊の間に位置していた島津隊は、四方を囲まれ退路を断たれてしまいます。
 
そのとき、島津義弘は取った戦略を取ります。それは、戦場の中央をを突き抜ける「敵中突破」でした。
 
島津軍の殺気に満ちた捨て身の突撃に、徳川軍はあっという間に蹴落とされ、側面にいた福島正則隊は手を出さず見送ります。東軍本陣近くにいた井伊直政は、追撃しましたが、銃で撃たれ負傷してしまいました。
 
その後、島津隊は、大きな犠牲を払いながらも、大将・義弘を守り抜き、敵中突破に成功します。
このときの、「島津の退き口」は、後世語り継がれる伝説となり、敵の東軍の武将からもあっぱれと称賛されました。

 

島津義弘は最強武将!?関ケ原で敵中突破を成功させた「捨て奸」とは?
 
 
こうして、島津義弘は、そのまま伊勢街道を下り大阪で人質となっている正室を回収し、本国へと船で帰還していきました。
 
まさに「漢」♥ですよ。
 
 
そして、西軍・石田三成の本陣も、ついに徳川軍の総攻撃の前に、壊滅します。
「関ヶ原の戦い」は、半日(約6時間)で決着がついたのでした。

 

関ケ原の後始末

 
 
「関ケ原の戦い」のその後は、どうなったのでしょうか。
 
石田三成は、当初逃亡しましたが、数日後に捕獲されます。
そして、小西行長らと共に、京都で引き回しのうえ、処刑されました。
 
西軍に味方した大名は、ほとんどが処刑されたり、領地を取り上げられたりしました。
 
宇喜多秀家は、島津家に逃げましたが、その後に出頭し、流刑になります。
 
吉川広家が領土安堵を約束されていたはずの毛利家も、戦後、家康になんくせをつけられ、大幅に領土を返上させられました。
 
島津家だけは、領土安堵を保証されない限り上洛しないと言い張り、外交政策が功を奏して、領土はそのまま残されました。
 
一方、東軍として参戦した多くの武将は、領地を与えられて、大名に取り上げられました。
 
上杉家との東北地方の合戦は、上杉家が徳川家に謝罪し、領地は縮小されますが、大名家としては残ります。東軍に協力した伊達家と最上家は、領地の増加を受けました。
 
そして、豊臣家は、大幅に領地を縮小されて1大名家となり、徳川家康の元で天下は統一されました。
 
それから3年後の1603年、「江戸幕府」が開かれて、「江戸時代」が始まります

 

関ケ原の戦いの勝因まとめ

 

 
秀吉亡き後の権力争いが原因で起こった「関ヶ原の戦い」は、石田三成の西軍と徳川家康の東軍に分かれて戦われました。
 
徳川家康は、裏切り工作など人を懐柔する策をとり、東軍を勝利に導きます。
家康(東軍)の勝因は、小早川秀秋の寝返りだけでなく、家康と三成の人心掌握力の差だと思います。
 
家康は、合戦が始まる前から、多くの武将に使者を送り、自分の味方をするように手紙を送り続けました。
もちろん、石田三成も、武将たちに手紙を送っていますが、内容はどうだったのでしょう。
人は、論理的な意見より、感情を動かされることで動きます。
 
また、人としても、幼いときから人質生活をし、戦国の世を生き抜いた経験値の高い家康のほうが、実力があると思われたでしょう。
 
きっかけは、小早川の裏切りでしたが、結局のところ、家康の勝因は、人間力と情報力だったと思います。

 

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