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「関ケ原の戦い」で散った大谷吉継(よしつぐ)。
その官職から、刑部(ぎょうぶ)と呼ばれることも多いです。
 
 
彼は大河ドラマやアニメでは、病気で皮膚がただれていたため、白頭巾をかぶった武将として描かれることが多いです。
 
 
そして、「関ケ原の戦い」までの石田三成との友情や、娘を真田信繁(幸村)に嫁がせたことでも知られる武将でうす。
 
 
人間的にバランス感覚のある優れた人で、武闘派の武将たちから嫌われ者だった(?)石田三成と、最後まで仲良くしてあげたいい人というイメージがあります。
 
 
徳川家康との窓口(連絡役)になっていたので、彼は家康とも懇意で、家康にもかなり誠実で有能な人物と思われていたようです。
 
 
関ケ原の戦いは、徳川家康・石田三成という東西の大将より、わき役の武将たちがかっこよくて素敵です。
 
 
島津義弘の退き口なんて、超絶かっこいいですね。
 
 
大谷吉継は、とにかく真っすぐで律儀な人柄が、生き様に表れている感じがして爽やかです。
 
 
それでは、大谷吉継の簡単なプロフィールと、白頭巾をかぶっていた理由についてお伝えします。

 
 

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文武両道に秀でた武将・大谷吉継

 
 
 
大谷吉継は(1559年)、近江国(滋賀県)で生まれたと伝わります。
 
 
父は浅井家の家臣・大谷吉房、浅井家の家臣で、母は、おね(北政所)の取次役の東殿でした。
 
 
1573年の浅井氏滅亡後に、北近江を支配することになった羽柴秀吉に仕えるようになりました。
 
 
このころ、後に「近江派」と呼ばれる石田三成や片桐且元など、同じく近江出身の武将が秀吉に仕官しています。
 
 
その後は、秀吉の播磨攻め、毛利攻めに参加し、信長亡き後は「賤ヶ岳の戦い」で、賤ヶ岳七本槍に匹敵する活躍をしました。
 
 
でも、大谷吉継の武勇の中で最大のものは、やはり「関ケ原の戦い」でしょう。
 
 
彼は武勇でも知られた人でしたが、官吏としても高い能力を備えていました。
 
 
堺政所の奉行に石田三成が任じられたときにはその補佐役となり、その後は、彼自身が奉行になりました。堺の兵站基地としての整備を、一手に任されていたのです。
 
 
また、朝鮮出兵時には、船の調達、輸送を担当しています。
 
 
明との和平交渉でも、明の使者を連れ添って一時帰国し秀吉と使者との面会を実現させるなど、行政官僚として素晴らしい力量を発揮しました。
 
 
文武智勇のバランスのとれた、貴重な人材だったと思いますよ。
 
 
でも、彼は1590年頃から、公の場にあまり姿を見せなくなりました。
 
 
それで、この頃に例の病を発病したのではないかと推測されるのです。
 
 
吉継の病は「業病」とよばれるものだったそうですが、一体どんな病気だったのでしょう。

 

大谷吉継は、なんの病気だったの?


 
大谷吉継は、「業病」だったといわれています。
 
 
「業病」というのは、通説では「ハンセン病」という説がずーっと有力でした。
でも、現在では「進行性梅毒」だったという説が有力視されています。
 
 
おそらく、そのどちらかだったのでしょう。

 
 

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★「ハンセン病」説

 
 
「顔がくずれその容貌を隠すために顔を白い頭巾で隠していた」、「末期は失明していた」という大谷吉継についての記述は、実は、江戸時代に広まった逸話です!
 
 
大谷吉継が白頭巾で顔をおおっていたとことや、ハンセン氏病の特有の病状は、戦国時代の史料には、はっきり書かれていません。
 
 
当時の史料には、ただ「悪瘡」であったと書かれているのみなのです。
 
 
悪性の腫物(おでき)という感じですね。でも、何らかの皮膚疾患だったことは間違いないでしょう。「関ケ原の戦い」の頃には失明していたというのも、確かな情報のようです。
 
 
また、江戸時代は見た目に大きな影響の出る皮膚の病を、総じて「業病=らい(ハンセン氏病)」と呼ぶことも珍しくなかったのだとか。ですから、確定はできないのです。

 
 

★「進行性梅毒」説

 

 
一方、大谷吉継は「進行性梅毒」だったのではないかという説もあります。
 
 
数年前に放送されたテレビ番組「歴史秘話ヒストリア」では、彼の当時の病状が記載された文献を医師に検証してもらった結果、「進行性梅毒」の可能性が高いという結論がでました。
 
 
梅毒は感染してから約10年後に発病する伝染病です。そう考えると、感染時期は「関ケ原の戦い」から逆算して、ちょうど朝鮮出兵の時期に当たるのです。
 
 
大谷吉継は朝鮮に出兵しているので、そこで性病の梅毒に感染したのではないかと考えられます。
 
 
確かに、加藤清正など他の武将もこのとき梅毒にかかっていますが、どうなのでしょう?
 
 
大谷吉継人は優れた人格者と思いたい人は、彼に限って性病なんてと思うかもしれませんが、現代と当時は倫理観が異なりますからね。
 
 
でも、私が気になるのは、「進行性梅毒」の場合、末期は脳の機能障害が表れるという点です。関ケ原の戦いまでの大谷吉継は、分析力も統率力も最期の決め方も、頭脳明晰としか言いようがない感じがします。
 
 
梅毒の末期に脳障害の現れない人がどれぐらいの確率でなのか知りませんので、何とも言えませんが・・・。

 
 

★「全く別の皮膚病」説

 
 
「ハンセン病」も「進行性梅毒」も推測の域を出ないということは、全く異なる病気だった可能性もあります。
 
 
大谷吉継の病状は重くて寝込んでいるときもあれば、その後、小康状態になり業務を熟している時期もあります。
 
 
軽いときは、文官としての仕事をしていたので、周りにも仕える人はたくさんいたでしょう。
 
「ハンセン病」の人が中央官庁のような部署で仕事をしていて、周りの人は平気だったのかなと疑問に思えます。
 
結局、今となっては確定することは難しいのです。
 
 
ですから、江戸時代の文献をもとにして「ハンセン病」だった断定するのは、控えたほうが良いと思います。

 
 

おわりに


 
大谷吉継は、関ケ原の戦いで、病魔に侵されながら、西軍に参加しました。
 
 
立ち歩くことができず輿(こし)に乗っての参加です。もう、目もほとんど見えなかったといわれます。
 
 
彼は、徳川家康とも親しかったのですが、このとき旧知の中の石田三成の味方をします。
 
 
そして、小早川秀秋の裏切りの可能性を計算に入れて、陣取りをしました。もしも、小早川が裏切れば、自分が西軍の盾になろういう覚悟です。
 
 
そして、最期は西軍の武将でただ1人「切腹」で果てました。
 
 
裏切りの多い西軍の中で、最後まで「義」を貫き通した、清々しく美しい生き様を見せてくれた武将でした。

 
 
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