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こんにちは!
 
 
細川忠興の正室・細川ガラシャは、戦国時代の美女の1人でした。
 
 
ハーフなの?と思うようなハイカラな名前で覚えやすいですが、ガラシャはキリスト教の洗礼名なので、普通に日本人です。
 
 
細川ガラシャは、悲劇の最期を遂げました。
 
 
そのことと彼女の辞世の句についてお伝えします。

 
 

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細川ガラシャの辞世の句


 
細川ガラシャの「辞世の句」は、とてもよく知られています。
 
 
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」
 
 
花も人も散りどきを心得てこそ美しいという意味です。
 
 
「花は散りどきを知っているからこそ花として美しい、私もそのようにありたい」という素晴らしく美しい覚悟を伝える句ですね。
 
 
「辞世の句ランキング」1位になるのももっともなのです。
 
 
最期にこんな達観した心でいられるなんて、本当に信仰心が深かったんだなと思えます。
 
 
彼女の夫・細川忠興はかなりエキセントリックな性格で、切れやすく嫉妬深いというめんどくさい旦那でした。
 
 
ガラシャ夫人も実は似たようなもので、かなり気が強かったらしいです。
 
 
細川忠興は戦いに行くとき、敵にの人質になるぐらいなら死ねと妻に言っていたそうですが、戦国時代はそういう考え方だったのでしょう。
 
 
彼女は夫の言いつけを守り、また自分の主義に従って人質になる前に、この時勢の句を詠んで果てたのです。。
 
 
細川忠興はガラシャの死の報告を受け、たいへん悲しみ「関ケ原の合戦」では東軍として戦いました。そして、1601年にオルガンティノにガラシャの「教会葬」を依頼して、自らも葬儀に参列します。
 
 
変人だったけど、なんだかんだいって、細川忠興は妻を愛していたんでしょうね。
 
 
遺骨は、その後、大坂の崇禅寺に改葬されました。他にも、京都大徳寺塔中高桐院など、いくつかガラシャの墓所とされている場所があります。
 
 
それでは、ここから細川ガラシャの生い立ちをさかのぼってみていきます。

 
 

実は明智光秀の娘で名前は「珠(たま)」だった

 

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細川ガラシャは、明智光秀の三女・明智珠(玉)(1563年~1600年)として生まれました。
 
 
珠が15歳のとき、細川忠興と結婚しました。この縁組は、父の明智光秀が織田信長にすすめられてまとまったものでした。
 
 
夫の細川忠興は強烈な性格の人でしたけど、お似合いの美男美女カップルで、夫婦仲はよかったようです。
 
 
でも、1582年6月、そんな平穏な結婚生活が一変してしまう大事件が起こってしまいました。
 
 
父・光秀が主君の信長を討つ「本能寺の変」です。
 
 
明智光秀は、細川家に援軍を要請しましたが、細川忠興はそれを拒否し、光秀は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)らの軍に滅ぼされました。(山崎の戦い)
 
 
珠はそのとき「逆臣の娘」になってしまったのです。
 
 
夫の細川忠興は、珠を丹後国に幽閉しました。
 
 
離縁されてもおかしくない状況なので、この処遇はそんなにひどいものではないと思います。それに、幽閉とはいっても、屋敷を建て軟禁したようなものですから。
 
 
それから2年後の1584年には、羽柴秀吉の取り成し、珠は細川家の大坂屋敷に戻ることができました。

 
 

キリシタン「細川ガラシャ」として生まれ変わる

 

 
珠が幽閉を解かれた3年後(1587年)に、夫の忠興は九州へ出陣しました。(九州征伐)
 
 
珠は、もともと出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していのですが、忠興がキリシタン大名の高山右近から聞いたカトリックの話をすると、その教えに魅かれていきます。宗教心の強い人だったのでしょう。
 
 
そして、忠興が九州征伐で不在のとき、身分を隠してこっそり教会に行き洗礼を受けることを望みました。でも、このときは、彼女の身なりから高貴な女性と分かったため、教会側が洗礼を見送ったといわれます。
 
 
その後、秀吉によって「バテレン追放令」が出されました。
 
 
珠はなんとか洗礼を受けたくて、宣教師たちが九州に行く前に大阪のイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父と連絡を取り、自邸で清原マリア(公家・清原枝賢の娘)から密かに洗礼を受けたのでした。
 
 
その洗礼名が「ガラシャ」です。
 
 
ガラシャは忠興には、すぐにキリスト教に改宗したことを伝えなかったといわれています。

 
 

ガラシャの最期

 
 
九州征伐から帰った忠興は、側室を5人を持つなどと言い出しガラシャに辛く当たるようになりました。
 
 
ガラシャは離婚を望みますが、キリスト教では離婚は教義に反するので、なんとかがまんしましょうと宣教師になぐさめられます。
 
 
そして、1600年、忠興は上杉征伐(会津征伐)に向かいました。
 
 
出立に際して、忠興は家臣に「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、妻を殺し、家臣全員共に切腹して果てるように」と、命じていました。ガラシャも武家の妻としてそのことは、心得ていました。
 
 
これは、当時の武家の習いとしては、当然の命令だったのです。
 
 
石田三成は、家康の虚を突いて大阪で挙兵しました。
 
 
そのとき、石田三成は、まず(仲が悪かったからともいわれる)細川家の妻女を人質にしようと考えたのでした。
 
 
諸大名の妻子を人質にすると、自分(西軍)に味方する大名が増えると見越しての行動です。
 
 
でも、細川屋敷のガラシャは、これを断固拒否したのです。
 
 
数度の要請を受けましたが従わなかったため、ついに三成は軍を率いて細川屋敷をとり囲み実力行使に出ました。
 
 
ガラシャは侍女たちを外へ逃がし、自分は奥の部屋でお祈りをしました。
 
 
そして、キリスト教は自害を禁止しているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャの胸を突く(首を落としたとも)という形で亡くなったのです。
 
 
その後、秀清は、屋敷に爆薬を仕掛けて火を点けた後、自刃して果てました。

 
 

細川ガラシャの死の影響

 

 
細川ガラシャに最期まで抵抗されて、石田三成は、今後、大名の妻を人質に取るのを断念しました。
 
ガラシャが亡くなったとき、細川屋敷には忠興とガラシャの嫡男・忠隆の正室で前田利家の娘・千世もいました。
 
 
そのとき千世は、侍女らと共に屋敷を脱出して、姉の豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れたのです。
 
 
息子の嫁だけ逃げ出したことに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じました。
 
 
でも、忠隆はこれを拒否します。
 
 
それにぶっちギレた忠興は、とうとう忠隆を廃嫡してしまったのでした。
 
 
さすがに切れやすいお人です。すごい形に発展してしまいました。
 
 
その後、忠興は、次男を差し置いて徳川家にパイプがある三男・忠利に家督を相続させます。
 
 
これに、不満を抱いた次男の興秋は、父に反発して「大坂の陣」で豊臣家に味方したのです。そうして、最終的には徳川方が勝ったので、父の忠興に命じられて切腹して果てました。
 

 

おわりに

 
 
細川ガラシャはその壮絶な最期と美しい意味の「辞世の句」で、後世の人々の心を打ちます。
 
 
そして、その散り際は宣教師によって欧米にまで伝えられ、オペラの主人公になりました。
 
そのオペラの名前は
 
「気丈な貴婦人 Mulier Fortis」
 
といいます。
 
この戯曲はオーストリアのハプスブルク家の姫君たちに特に好まれ、てよく公演されていたそうです。

 
 

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