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こんにちは!
 
 
今回は、誰もが1度は聞いたことがある(?)ベートーベンについて!
 
 
有名な音楽家なので、逸話も伝記もたくさんあります。
 
 
ここでは、大きな特徴をさらりと簡単にまとめました。
 
 
ベートーベンの有名な交響曲やピアノソナタはこちらに♪

  
⇒★【完全版】べート―ベンの代表曲★知っておきたい超有名曲を紹介
 
 

ベートーベンの生涯を簡単に説明

 

【出典元:Wikipedia】

 
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベンは1770年12月に、ドイツのボンで生まれました。
 
 
ベートーベンの生家は、宮廷歌手として成功した音楽家の家系でした。でも、父のヨハンは歌手として大成することなく呑んだくれになり、家計を祖父の稼ぎに頼るというなんともダメな親父だったのです。
 
 
そして、頼みの祖父が亡くなってしまうと、一家は一気に貧乏になりました。
 
 
ベートーベンは、かんしゃくもちだったと知られていますが、父親も同じような気質だったらしく、飲んだくれては周りに当たり散らすDV男でした。
 
 
そして、自分はたいしたことがないくせに、子供を飯のタネにしようと、音楽のスパルタ教育を始めたのです。
 
 
当時は、モーツァルトが「神童」と呼ばれ、ものすごい額を稼いでいたことが音楽業界で知られていました。ですから、ベートーベンの父も、息子を第二のモーツァルトにしようとしたのでしょう。
 
 
でも、モーツァルトの父親は宮廷音楽家で、幼い頃から息子との関係はそんなに悪くありません。そういう意味では、英才教育もモーツァルトのほうが効果が高かったでしょう。
 
 
それでも、ベートーベンは、10代のころからオルガン奏者として働いて、一家の生計を立てるようになりました。
 
 
彼は、音楽家としては、かなり長生きです。晩年は、かんしゃくもちの性格がひどくなり、養育していた甥のカールを溺愛するあまり束縛して、カールが自殺未遂を起こすという事件が起こりました。
 
 
それからは、カールに過剰にかまうことはやめたようですが、人付き合いはずっと上手ではなく、生涯、敵の多い人生だと感じていたようです。

 
 

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◆28歳ごろから耳が聴こえなくなってきた

 

 
ベートーベンは、20代後半から耳が聞こえにくくなってきました。そして、30歳になるころには、まったく音が聴こえなくなってしまったのです。
 
 
これは、音楽家にとって致命傷でした。また、さらに失恋も重なってしまいます。多分、このころがベートーベンのいちばんの試練の時でした。
 
 
やがて彼は立ち直り、特製のピアノを発注して難聴の克服に務めます。不屈の精神ですね。
 
 
ベートーベンの音のとらえ方は、ピアノの弦を叩いた振動が伝わってくるようにすることでた。それで、難聴でも音の強弱を把握できるようになったといわれます。
 
 
口にくわえたタクトをピアノに接触させて、歯から伝わる振動で音の強弱やリズムをとらえたとも言われています。
 
 
おそらく、何らかの形で「骨伝導」を利用して音を感じていたのでしょう。
 
 
後は、自分の記憶の中に残る音のイメージを組み合わせて発展させ、新たな曲を創作し続けたのです。

 
 

◆すぐ切れる性格でナポレオンにもめちゃ切れでした

 

 
ベートーベンといえば、学校に飾られているライオンのように髪を振り乱した肖像画を思い浮かべる人が多いと思います。
 
 
気難しそうでかなり怖そう・・・・怒鳴られそうな雰囲気ですね。どうも、本人もその通りの性格だったようです。怖いです。
 
 
とにかくかんしゃくもちで、気に入らないことがあれば、そばにあるものを投げつけたり、楽譜を破り捨てたりすることもあったようです。彼はハイドンの弟子でしたが、ハイドンともケンカ別れしています。
 
 
だから、恋人とも続かなかったり、失恋したりするんでしょうね。女性としては嫌ですね、こんなDV男。
 
 
ベートーベンは、平民出身でフランス革命を熱く支持していました。ですから、平民に近い貧乏貴族のナポレオンが登場したとき、英雄の登場だと喜びました。そのときに作ったのが、交響曲第3番『英雄(エロイカ)』です。
 
 
彼は、楽譜の表紙に「ボナパルトへ捧ぐ」と献辞を記しました。
 
 
とうとう完成し、フランスに送ろうとしたころ、「ナポレオンが皇帝に就任した」という一報が届きます。
 
 
それを聞いたベートーヴェンは、ブッちぎれて、「ヤツもただの権力にしがみつく俗物に過ぎなかった!畜生!畜生!畜生!」と、怒り狂ったのでした。
 
 
部屋の中にある物を投げ、自ら書いた「献辞」を消して、上から「かつて英雄だった男の思い出に」と書き替えました。(←これ、現存してます)
 
 
でも、曲の内容を変えることはありませんでした。
 
 
こちらが交響曲第三番『英雄』です。一般的な交響曲(30分ほど)よりかなり長く50分を超える作品ですよ。
 
 
テレビCMに使われたことも多いので、始めの数分で「あっ!」と思われる方も多いと思います。

   ↓  ↓  ↓

 
ベートーベンは、こんなに切れやすい性格だったので、彼とうまく付き合えた人は、限られていました。
 
その中で、よく知られているのが、ピアノを習ったことがある人なら誰もが知っているツェルニーです。ツェルニーの100番とか30番とか、つまらなくて私、大嫌いだったんですけど、そんなツェルニーは、ベートーベンの弟子でした。
 

 
あとは、友達だったシューベルトや秘書のシンドラーなどがいます。シューベルトは、20歳以上年下の年の離れた友達でした。

 
 

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◆葬儀には2万人の参列者が集った

 

 
ベートーベンは56歳のとき、病でこの世を去りました。肝硬変だったといわれます。
 
 
1827年、ウィーンで執り行われたベートーベンの葬儀には、2万人もの市民が参列したそうです。
 
 
彼は、こっそり「市民革命」を支持していた(当時のオーストリアは言論の規制が厳しかった)ので、宮廷からは1人の弔問もいませんでした、でも、彼は民衆から絶大な支持を得ていたのです。
 
 
彼の臨終の家から墓地までの道は、長い参列の行列で埋め尽くされたそうですよ。
 
 
そして、最後まで友人だったシューベルトは、彼の棺を運びました。
 
 
シューベルトにとって、ベートーベンは、ただの友達ではなく、尊敬する音楽の先輩でもありました。
 
 
それで、自分が死んだときは、ベートーベンのお墓の近くに埋葬してほしいと、周りの人に頼んだそうです。
 
 
シューベルトは、ベートーベンが亡くなった翌年に、31歳の若さでこの世を去りました。そして、彼の願い通どおり、お墓はベートーベンのお墓の横に作られたのでした。
 
 
現在、そのお墓の場所はシューベルト公園になっていて、ベートーベンのお墓はウイーンの中央墓地に移動されています。
 

 
 

◆ベートーベンの簡単年表


 
・1770年
12月16日ドイツのボンで誕生
 
・1778年
父と共にケルンで最初の演奏会を開催
 
・1781年
母とオランダへ演奏旅行に出かける。
 
・1784年
宮廷のオルガン奏者になる。
 
・1787年
ウィーンに行きモーツァルトに会う。
   
・1790年
ボンに立ち寄ったハイドンと面会
 
・1792年
ハイドンに師事するためにウィーンへ。父が病死。
   
1795年
ウィーンで最初の公開演奏会、作品を演奏。
   
・1799年
テレーゼとヨゼフィーネにピアノを教える
     
・1800年
宮廷劇場で「交響曲第一番」
   
・1801年
ピアノソナタ「月光」をジュリエッタに捧げる
   
・1802年
「ハイリゲンシュタットの遺書」
    
・1804年
「交響曲第三番 英雄」
ナポレオンが皇帝に即位し激怒
    
・1808年
「交響曲第五番 運命」「交響曲第六番 田園」を発表
   
・1812年
詩人のゲーテに会う
   
・1814年
歌劇「フィデリオ」が大成功・
   
・1816年
甥のカールの後見人になる。
   
・1824年
「交響曲第九番 合唱」「ミサ・ソレニムス」の大成功
   
・1826年
甥のカールが自殺未遂。
   
・1827年
3月26日死去
 
   
   
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