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こんにちは!
今回からルネサンスについてお伝えします。
イタリアです。大好きです♪
何が好きって、それぞれの都市にはっきりしたカラーがあって、未だにルネサンスを感じさせるワクワクがあるところです。
今も宝飾店が立ち並ぶヴェッキオ橋にはかつてのメディチ家・豪華王の影が見え、サンマルコ広場にはヴェネツィア共和国ドージェ(元首)の影が見えます。
建造物がそのまま残っているというのは、「石の町」ヨーロッパならではの美点なのです。
で、ルネサンスの舞台でもあるので、「ルネサンス美術」も町のいたるところに残っていますよー。
今回は、そのルネサンスがなぜイタリアで生まれたのか、いえ、ルネサンスが「イタリアでしか生まれ得なかったわけ」をお伝えします。
目次
◆ルネサンスとは?
ルネサンスというのは、「再生」という意味の言葉ですよ。昔は「文芸復興」などと訳されていたのですが、それでは半分しか訳せていないので、今はそう習いません。
そのルネサンスは、2つの軸でできています。
・人間性の回復
・ギリシャ・ローマ文化の復興
中世1000年の暗黒時代の幕開けなどと、20年ほど前は言われていましたよ。
今では、中世の暗黒史観は古い学説となっています。というのも、1000年の間、ずーっと停滞し続けていたわけではなかったからです。
でも、西欧中世世界で人間性が失われていたのは確かなのです。だから「人間性の回復」なのです。
「何からの回復?」と言われると、それはもちろん「キリスト(神)中心の世界観」からの回復です。中世社会はカトリック的権威主義(聖職者が威張り放題だった)で、個人の人間性が否定されていました。
その人間性の回復が、イタリアで起こった理由についてお伝えします。
◆イタリアで起こった最大の理由は「地理的優位にあったこと」
ルネサンスが14世紀にイタリアで起った理由は、教科書的には3つ習います。
1.地中海(レヴァント)貿易の中継地で豊かだったから
2.ビザンツ帝国が衰退して東ローマ文化・イスラム文化が流入したから
3.イタリアには古代ローマの遺跡がたくさん残っていたから
1つ1つ見ていくと、よくわかるのですが、イタリアがフランスやドイツなどの辺境と大きく異なったのは、圧倒的な「地位的優位」に立っていたことです。
つまり、イタリアに、価値観の大転換が起こる条件がそろっていたのす。
1.レヴァント貿易(地中海貿易)の中継地だった
まず、イタリアは、レヴァント貿易の要に位置していました。
つまり、イタリアがアジア・アラブ諸国からヨーロッパ各地へ物資が通る唯一の出入口だったのです。時代は大航海時代の「前」ですよ。
輸出入の物資が増え、イスラム諸国から異国の文化が入ってきて、しかも、都市国家は商人中心の町でした。大商人というのは、古今東西、実益を第一と考えるので信心深くないものです。
このように、イタリア人は、もともとカトリックの精神的呪縛をあまり受けていない人々だったのです。
そして、交易国家であるジェノバ共和国やヴェネツィア共和国の主な通商相手はオスマントルコなどのイスラム諸国でした。商業国家は貿易を有利に運ぶためにイスラム文化を学んでいきます。
そうして、異国の「多様な価値観」がこの地に流れ込むようになったのです。
2.ビザンツ帝国の衰退による東ローマ文化の流入
これが一番分かりにくいですね。
ビザンツ帝国は、日本では知名度が低いです。でも、この時代はかなり重要なことをしています。
たとえば、あの有名な「十字軍」の起こりも、このビザンツ帝国がきっかけでした。ビザンツ皇帝がローマ教皇に十字軍を要請したのでしたね。
なぜか?
それは、ビザンツ帝国がイスラム国家に侵略されていたからです。
その当時のイスラムの国家は、オスマントルコ帝国、イスラムの大帝国です。(ビザンツ帝国は、結局1453年に滅ぼされました)
当時のビザンツ帝国は、オスマントルコの侵攻で領地をどんどん奪われていました。それに危機感を覚えたビザンツの知識人たちが、地理的に近いキリスト教国に移住したのです。
その主な移住先がイタリアの都市国家だったのです。
彼らによって、ビザンツ(東ローマ)文化、つまり、古代ギリシャ文化をルーツにする文化とイスラムの文化が流入し、それがイタリアでは新鮮だったので人気が出たのでした。
3.イタリアに古代ローマの遺跡がたくさんあったから
古代ギリシャ文化への回帰は、そのまま古代つながりで古代ローマ文化への関心に結びつきました。この2つの文化は密接に関係しているので自然な流れです。
となると、イタリアは「古代ローマ都市」の存在した場所ですから、そこには紀元前後のローマの遺跡がたくさん残っていると、人々が再確認したのです。
そうして、「ギリシア・ローマ文化の復興」が一大ブームとなり、キリスト教以前の「人間中心の芸術の再生」につながったのでした。
◆イタリアは封建的君主がいない「都市国家」の集合体だった
地理的に優位だったこと以外で大切なのは、この時代、イタリアには「イタリア」という国家は存在せず、いくつかの都市国家に分かれていたことです。
もともとイタリアは、ローマ教皇(聖の世界)と神聖ローマ皇帝(俗の世界)が、権力争いをしている奇妙な土地でした。
神聖ローマ帝国が、またまたややこしい国なのです。
この帝国は、始まりの「オットーの戴冠から大空位時代ごろまで」はイタリアの王様っぽい感じだったのですが、それ以降、ドイツ・オーストリアの王様っぽくなって、ハプスブルグ家の当主が皇帝位を兼ねるようになっていきます。(マリア・テレジアもそうでしたね)
ルネサンスの時代の神聖ローマ皇帝は、まだ「イタリアを統べる皇帝」でしたが、ローマ教皇に負けてとても弱かったのです。
となると、地方の有力者が自分たちで自治都市を作ろうという流れになり、イタリア地方にはいくつかの有力な都市国家が存在し続けたのでした。
その代表が、フィレンツェ共和国・ヴェネツィア共和国・ジェノバ共和国、サンマリノ共和国などです。
それらの都市国家の有力者は、競うようにして「ルネサンス芸術家」のパトロンになりました。
彼らの庇護のもとで、レオナルドダヴィンチ・ミケランジェロ・ラファエロなどのイタリアルネサンスの巨匠が誕生したのです。
それでは、次回は、万能の天才・レオナルドダヴィンチについてお伝えします♪
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