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こんにちは。
今回は、日本史上、天皇の近くで長く権勢を誇ってきた「五摂家」(摂関家)の現在についてお伝えします。
明治維新まで天皇は京都御所にいらっしゃいました。そして、その御所の周りには、大小たくさんの公家屋敷がひしめいていました。(「禁門の変」で焼失)
中でも、特に有力な公家の近衛家や鷹司家の屋敷跡は、今も京都御苑に残っています。
また、京都御苑の北側に接する同志社女子大学・女子中学高校のある場所には、以前は二条家の邸宅がありました。(隣の同志社大学は薩摩藩邸の跡地)
この「近衛家」「鷹司家」「二条家」という家は、藤原鎌足から1300年以上も続く藤原氏の末裔なのです。
藤原氏の子孫は、現在は「藤原」の姓を名乗っていません。藤原氏というのは「氏」であって「名字・姓」ではないからです。(氏と名字(苗字)は別物)
京都御苑に五摂家の邸宅跡がありますよ。京都散策でその場所に行ってきました!
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【京都散策】幕末の「五摂家」はどう行動した?それぞれの思惑と立ち位置を説明
藤原氏の「摂関政治」道長は摂政だった?それとも関白?
目次
「五摂家」とは?
藤原氏の歴史は、飛鳥時代にさかのぼります。藤原氏の祖は、645年、中大兄皇子の「大化の改新」に協力した中臣鎌足なのです。
中臣鎌足は病で亡くなる際、中大兄皇子(天智天皇)から「藤原」という氏を賜ったのでした。それ以来、彼は「藤原鎌足」となりました。
原点が「飛鳥時代」、すごい歴史です。( ̄▽ ̄)
そして、それからいろいろあって(後述)、今では最上位の「藤原氏」は五家あります。
それが、近衛・鷹司・九条・二条・一条の「五摂家」と呼ばれる摂関家です。
それぞれの当主は、今は一般人として暮らしている方もいるので、あまり深くは述べませんが、おおよそ、このような方々です。
(1)近衛(このえ)家
近衛家は、五摂家の筆頭です。
現当主は、近衛忠煇氏。
「日本赤十字社」の現社長で、国際赤十字・赤新月社連盟会長をしています。そして、旧熊本藩細川家の現当主、元首相の細川護熙氏の実弟でもあります。
「え?」と思われましたね。
そう、この方は細川元首相の弟なので、細川家の人間です。ですが、母親が近衛家の娘なのでかなり血は濃いです。
当時、近衛家の男子が絶えた(文隆がシベリア抑留で病死)ため、次男の彼が母の実家・近衛家に養子に入って、後を継いだのでした。
祖父(母の父)は、内閣総理大臣を三度つとめた近衛文麿です。
(2)鷹司(たかつかさ)家
鷹司家の現当主は、鷹司尚武氏です。
この方は、現在、「伊勢神宮の大宮司」をつとめています。こちらも、旧美濃岩村藩主大給松平家(徳川の親類)からの養子で、もとは実業家でした。
(3)九条(くじょう)家
九条家の現当主は、九条道弘氏です。「平安神宮の宮司」をしています。
また、藤原氏の子孫が集う「藤裔会」という会の会長です。「藤裔会」会長は、代々九条家の当主が務めると決まっているそうです。
毎年秋に、藤原氏の氏神・春日大社(奈良)に集まって、会合を開くそうですよ。
(4)二条家
二条家の現当主は、二条基敬氏です。神官を務め、実業家でもあります。
祖父の二条斉敬は、最後の「関白」でした。(王政復古の大号令により摂政関白が廃止されたため)
二条斉敬は京都守護職に任じられた会津藩主・松平容保と厚い信頼関係があり、1864年には会津松平家と二条家とは「両敬の約」という固い契りを結んでいます。
容保はたびたび斉敬の二条邸を訪問し、第14代将軍徳川家茂も二条邸を訪れたことがあるそうです。
当時、将軍が公家屋敷を訪問するのは、驚天動地の出来事でした。幕末期の一舞台だったと分かります。
(5)一条家
一条家の現当主は、一条實昭氏です。現在は、弁護士をされています。
2014年、桂宮宜仁親王の喪儀(斂葬の儀)で、司祭長を務めました。
五摂家の成り立ち
藤原鎌足に始まった藤原氏は、二代目藤原不比等の後、三代目で4つの家に分裂します。
それが藤原四家(南家・北家・式家・京家)です。
そのうち、藤原北家が有力となり、藤原氏嫡流といえば「北家」をさすようになっていきました。
その藤原北家は、平安中期・藤原道長の時代に最盛期を迎えます。
その後、上皇による院政が続き、藤原氏が天皇をしのぐ力は持ちにくくなりました。そして、武士の時代が台頭すると、公家が政治の表舞台に立つのは、もはや難しい時代になっていったのです。
そこで権力を維持するため、平安末期の公家・藤原忠通は、息子の基実と平清盛の娘を結婚させて、平家と縁戚関係を結びました。
この藤原基実(1143年~1166年)が近衛姓を名乗ったことで、近衛家が成立しました。
鎌倉時代になると、藤原氏の子孫たちは、摂政・関白の職を独占するため、後継ぎが途絶えると、分家して摂政・関白になれる家を増やしていきました。
そして、まず、長男筋の近衛家と三男の九条家ができ(次男の松殿家は途絶える)、近衛家から鷹司家が、九条家から二条家と一条家が分家しました。
そして、鎌倉時代末には、「摂政・関白」になるこの5つの家が「五摂家」として固定化されたのです。
そして、前述の二条斉敬が、最後の関白となりました。
歴史ドラマ好きな人は、あれっと思いませんか?
豊臣秀吉とその甥・秀次は、「関白」だったのでは??
そう、戦国時代に下級武士上がりのあの人たちがこの超名門の朝廷の役職に就くという、とんでもない事態が起こっていたのです。
でも、彼らは例外中の例外です。
なぜ認められたのか、気になりますね。
戦国時代末期は朝廷の力が弱まったため、公家側の苦肉の策だったのでしょう。2人とも名目上は「近衛家」の養子になって関白職を賜っています。
「関ケ原の戦い」の後、徳川家康は「関白」は求めず「征夷大将軍」を賜り、1601年、関白には五摂家(摂関家)の九条兼孝が返り咲きました。
それ以降、王政復古で廃止されるまで、関白は、ずーっと「五摂家」の人が務めています。
清華家(せいがけ)
藤原氏は、もちろんこの五摂家だけではありません。他にも、支流の家がたくさん存在します。
最上位の「五摂家」に継ぐのが「清華家(せいがけ)」と呼ばれる家格の家です。
清華家は、大臣を兼ねた太政大臣になれる「7つの家」で構成されます。
久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川(後に、広幡・醍醐を加えて9家)の7家です。
戦国武将・武田信玄の正室・三条夫人は、この三条家の姫君でした。
武田信玄の正室・三条夫人は、高慢なワガママ姫ではなかった!?
内閣総理大臣を二度務めた西園寺公望は、徳大寺家に生まれ、二歳のとき西園寺家に養子に出されました。いずれにせよ清華家出身です。
西園寺が創設した立命館大学は、現在は京都市北区の衣笠に本拠地がありますが、当初は京都御所内の彼の私邸に「私塾立命館」として創設されました。御苑内に私邸があったということです。
ちなみに、同志社大学の一角に入り込むような形で存在する冷泉(れいぜい)家も、藤原北家・藤原定家の子孫で、和歌守の家(朝廷の図書係?)でした。
また、作家・武者小路実篤を排出した武者小路家や、蹴鞠と和歌の家・飛鳥井家なども、藤原北家の子孫です。
まとめ
● 藤原氏は源氏や平氏と同じく「氏」なので、その濃い血筋の人は藤原という「苗字」は使わないことが多い
● 藤原北家の嫡流は「五摂家」
● 五摂家は近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家
● 五摂家は、明治維新まで一部の例外を除き、「摂政・関白」を務める家だった
幕末の動乱期に、五摂家(摂関家)も各藩と結びついていろんな事をしていますよ。
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