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こんにちは。
以前、なかなか子宝に恵まれなかったマリーアントワネットについてお伝えしました。⇒★こちらの記事です♪
最近、平均出産年齢が上がっていて、不妊治療を受ける夫婦がどんどん増えているそうですよ。
結婚適齢期というのは、セクハラの問題があるので、軽々しく口にできませんが、私は出産経験者として、出産適齢期というのはあるんじゃないかなと思います。
なので、娘には、できれば初産は20代のうちにと言っているのです。(あくまで、私の個人的意見です)
医療が発達したとはいえ、母子ともに与える影響を考えると、年齢を重ねるほど、体力が落ち出産リスクは高まります。
マリーアントワネットの場合、不妊の原因は旦那でした。ルイ16世が医療的処置を行ってしばらく後に、無事懐妊したのです。
でも、国王の子として生まれながら、マリーアントワネットの4人の子供たちは、それぞれ幸せとは縁遠い哀しい人生を送りました。
いつの時代も、特権階級の人が幸せとは限らないんですね・・
◆マリーアントワネットの子供たち
マリーアントワネットは、生涯で5人子供を宿し、4人出産しています。1人は流産でした。
上から順番に、こうなります。
1778年:マリー・テレーズ
1781年:ルイ・ジョセフ(王太子)
1785年:ルイ・シャルル
1786年:マリー・ソフィー
マリーアントワネットの最後の子供、マリー・ソフィーは、わずか生後11か月で、病気で亡くなりました。
当時は、乳児死亡率が高く、貴族は特に高かったそうなので、珍しいことではなかったのかもしれません。
上の肖像画は、当時、マリーアントワネットにたいへん気に入られていたヴィジェ・ルブランという女性画家が描いたマリーアントワネットと子供たちの肖像画です。
右端の少年(ルイ・ジョセフ)の後ろにゆりかご(ベビーベッド?)が見えますね。この絵を描き始めたとき、ここにマリー・ソフィーがいたのです。
描いている最中に亡くなったのでした。
空っぽなままなのが、なんだか哀しいです。
◆夭折した聡明な王太子・ルイ・ジョセフ
王太子ルイ・ジョセフは、家庭教師たちが驚くほど賢い子供だったそうです。でも、彼は生まれつき病弱でした。
少し疲れると高熱を出していたのですが、国王夫妻は教育に熱心でしたが、彼の健康状態については、始めは楽観視していました。
異変に気付いたのは、1786年4月でした。
ルイ・ジョセフが再び高熱を出し、結核とみられるある症状が表れたのです。
王子の背骨が不自然に曲がってしまっていたのでした。結核菌による脊椎カリエスです。
王子の養育係の女性の1人が結核にかかっていて、体の弱い王子は、その人から結核菌をうつされたのでした。
もともと病弱だったルイ・ジョセフは、どんどん衰弱していきました。数か月後には歩行が困難になり、鉄製のコルセットを装着して腰を安定させるなどの処置がとられました。
1788年には、病状がさらに進行し、マリーアントワネットにも王子の寿命が長くないことが知らされたという記録が残っています。
そうして、1789年6月4日、ルイ・ジョセフは、わずか7歳半でその短い生涯を閉じたのでした。
1789年7月14日、バスティーユ牢獄が民衆の手に落ち、フランス革命が始まりました。
ルイ・ジョセフは、そのわずか1カ月ほど前にこの世を去ったのです。
後世の歴史家は、これを「神の恩恵」と伝えています。ルイ・ジョセフは、平和で美しいフランス宮廷だけを見て生きることができたのですから。
病気でのつらさはひどかったと思いますが、革命に巻き込まれたもう1人の王子ルイ・シャルルのその後の悲惨さを思うと、私も幸せだったのだろうと思います。
◆おわりに
マリーアントワネットの子供は、無事に生まれたのが4人(2男2女)で、そのうち2人(1男1女)は、フランス革命勃発前に病死しました。
では、残りの2人はどうなったのでしょう?
彼らには、かなり苛酷な運命が待ち構えていたのです。ちょっと息苦しくなります。
その2人については、こちらでお伝えしています。
↓
★次男のルイ・シャルル
★長女のマリー・テレーズ