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こんにちは!
 
 
フランス革命に登場する人々について書いた記事をまとめました。
主にマリーアントワネット周辺の人々についてです。
 
 
革命政府側の人々など、まだまだ増える予定です。

 
 

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マリーアントワネットと周りの人々

 

【出典元・Wikipedia:マリーアントワネット】

 
マリーアントワネットは、社交的で明るくおしゃれでチャーミングな女性でしたが、驕慢で物事を深く考えることができない落ち着きのない人でもありました。
 
 
そして、、政治には全く無関心で、宮廷で人間関係に気配りすることもできず、自分の気に入った者だけをひいきして周りにはべらせていました。
 
 
マリーアントワネットは、フランス革命が起こったとき、民衆から「憎悪の対象」「諸悪の根源」として見られていましたが、それは彼女が軽んじた貴族たちが、彼女の悪口雑言を民衆にぶちまけたのも原因の1つだったのです。
 
 
ほんの少しでもいいから、あの豪快な母親に似ていたらと思いますが、親子でも気質が全然異なっていたというのが面白いです。

 
 

欧州の名門・ハプスブルグ家皇女として生まれて

 

【出典元・Wikipedia:マリーアントワネット】

 
マリーアントワネットは、オーストリア・ハプルスブルグ家の皇女として、1755年にウイーンで生まれました。
 
 
母は女帝マリア・テレジアです。マリア・テレジアは隣のプロイセンと戦争をしまくりながら、16人もの子供を産んだすごい女性で、マリーアントワネットはその末娘(11女)でした。
 
 
彼女は14歳のとき、フランスと同盟を結ぶための外交政策の1つとして、フランス・ブルボン家に嫁ぎました。

 
 

 
 

ルイ15世公妾・デュバリ―夫人

 

【出典元・Wikipedia:デュ・バリ―夫人】

 
マリーアントワネットがフランスのベルサイユ宮殿に到着したとき、夫・ルイーオーギュスト(後のルイ16世)の祖父がルイ15世として君臨していました。
 
 
ルイ15世は太陽王ルイ14世の曾孫で、ブルボン王家随一のイケメン国王といわれます。(本当かは知りません)
 
 
そして、政治に無関心で享楽的、精力抜群のエネルギッシュな国王でした。
 
 
フランスには、公妾制度という奇妙な制度がありました。これは、国王が愛人(側室)の中で、とびきりのお気に入りを一緒に社交界(パーティ)に連れ出したいために、「公の愛妾」として定めた自分勝手な制度でした。
 
 
この制度のおかげで愛人が日陰者にならず、臣下からも王妃のような扱いを受けたのです。
 
 
そのもっとも有名なのが、国王の代わりに政治を行った「陰の実力者」ポンパドール夫人です。 ↓


 
 
ルイ15世は、若いころから合わせて6人の公妾がいました。王妃はどうしていたのかと言いますと、若い頃は王妃ともラブラブだったようです。
 
 
ルイ15世妃マリーレクザンスカは、大人しい性格で社交界で騒ぐより信仰に生きたいという女性でした。ルイ15世との間に10人の子供をもうけています。
 
 
10人ということは、最低でも10年間妊娠しっぱなし・・・・
 
 
母体に負担がかかり妊娠禁止のドクターストップがかかったのをこれ幸いにと、それ以降、彼女はルイ15世と寝室を共にしなかったそうです。
 
 
そして、願い通り信仰に生きて静かに暮らしたのです。
 
 
ルイ15世はそれからもいろんな女性のところへふらふら飛んでいき、最後は、元娼婦?とも噂される最下層出身のデュ・バリー夫人を公妾にしたのでした。
 
 
マリーアントワネットが14歳でベルサイユに来たとき、宮殿の女主人はこのデュ・バリー夫人だったのです。
 
 
デュ・バリー夫人は悪女のように描かれる事が多いですが、実際は、女性に目の肥えているルイ15世に気に入られるだけあって、明るく朗らかで気配りもできた有能な女性だったと思われます。
 
 
人を見下すことなく、近づいてくる人は誰でも受け入れる懐の深さのある女性で、当時の宮廷内での評判はかなりよかったのです。

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まるで水と油?ルイ16世とマリーアントワネット

 

【出典元・Wikipedia:ルイ16世】

 
ルイ16世とマリーアントワネットほど、まったく何から何まで正反対の性格の夫婦はいなかっただろうとツヴァイクが指摘したとおり、この2人はまったく合わないタイプでした。
 
 
ルイ16世は、内向的思考型。
マリーアントワネットは、外向的行動型。
なかなかお互いを理解し合えない2人でした。
 
 
ルイ16世は、遊び歩く妻と違って静かな環境を好むマイホームパパです。彼は趣味が「錠前づくり」だったと知られていますが、それはちまちました作業ではなく豪快な鍛冶作業でした。
 
 
仲間(臣下でもある)と一緒に作業小屋を作って大がかりな木工細工などを作り、マリーアントワネットに大きな糸車をプレゼントしたこともありました。歯車を組み合わせてきちんと動くもので、機械作りのようなものです。
 
 
その他の趣味は「狩猟」というこれまた男性的で活動的な趣味でした。日本でいうと、貴族より武士の好む趣味が好きだったという感じです。身体的にも180cmを超える長身で、立派な体格だったようですよ。
 
 
生涯にただ1冊の本も読めなかったというマリーアントワネットと違って、頭もよかったと思われます。
 
 
でも、ぐるぐるぐるぐる考えてなかなか行動に移せないという思考型の短所を、思いっきり強く持っていた人なのでした。
 
 
その決断力のなさから、大事な場面で頭の悪いマリーアントワネット主導で動いてしまい失敗してしまいました。

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生き残ったほうが悲惨だった?4人の子供たち

 

【出典元・Wikipedia:マリーアントワネットと子供たち】

 
マリーアントワネットは、生涯に4人の子を産んでいます。
 
 
1778年:マリー・テレーズ
1781年:ルイ・ジョセフ(王太子)
1785年:ルイ・シャルル
1786年:マリー・ソフィー

 
 
このうち、マリーソフィーは1歳の誕生日を迎える直前に病死しています。
そして、長男のルイジョセフは、フランス革命勃発(バスティーユ牢獄襲撃事件)のわずか1カ月前に7歳で病死しました。
 
 
残りの2人は、激動の時代を生き抜きます。
 
 
娘のマリーテレーズは運命に翻弄されながらも天寿をまっとうしますが、ルイ17世となったルイシャルルは、幽閉されたまま放置され虐待死してしまいます。
 
 
マリーアントワネットの子供たちの中で、彼がもっとも凄惨な最期を迎えました。

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マリーアントワネットの2人の「お気に入り」

 

【出典元・Wikipedia:ポリニャック夫人】

 
好き嫌いのめちゃくちゃ激しいマリーアントワネット。
 
 
好きとなったら、ずっとそばから離さず、どんどんお金(下賜金)もあげちゃいます。それがまたまた、民衆の怒りを買ったのです。
 
 
民衆にチクったのは、もちろん、マリーアントワネットが嫌って遠ざけていた貴族たちです。

 
 
【ランバル公妃】

 
 
ポリニャック夫人ランバル公妃、同じ年に生まれ同じ年に死んだこの2人の女性は、フランス王室にとってとても対照的な動きをしていて興味深いです。
 
 
ポリニャック夫人は、フランス革命が起こると真っ先に王妃を見捨てて、もらったお金はしっかり懐に入れ家族とともにすぐさま外国へ亡命しました。
 
 
ランバル公妃は、パリにとどまり王党派とのつなぎ役などをしていて「九月虐殺」の犠牲になり、民衆の手で体を引き裂かれました。
 
 
ポリニャック夫人は、かわいい顔して最低な女と描かれることが多いですが、私は嫌いじゃないです。彼女は王妃ではなく家族を愛していて、家族のために一生懸命生きたのだと思います。

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最後までマリーアントワネットの心の支えだった義妹エリザベート

 

【出典元・Wikipedia:ルイ16世妹エリザベート】

 
上で述べた2人の取り巻きよりずっと語られることは少ないですが、最後の最後までマリーアントワネットとともに過ごし、王妃の心の支えになったのは、ルイ16世の妹エリザベートでした。
 
 
彼女は大人しくつつましやかで、凛とした芯のある強い女性でした。信心深く常に人々への気配りを忘れなかったといわれます。
 
 
マリーアントワネットの処刑後に彼女も処刑されましたが、民衆たちの中からも恩赦の嘆願書が出されたほど民衆にも人気のあった女性です。

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マリーアントワネットの恋人?フェルゼン伯爵

 

【出典元・Wikipedia:フェルゼン伯爵】

 
スウェーデン貴族のフェルゼン伯爵は、革命が起こってから国王一家を外国に亡命させるため、力を尽くした人でした。
 
 
フェルゼンとマリーアントワネットの出会いから最期まで、まとめたのがこちらの記事です。

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【おまけ】ヨーロッパ宮廷はパピヨンがお好き?

 

 
18世紀末のヨーロッパは、空前のパピヨンブームだったそうです。
 
 
貴族という貴族がパピヨンを飼っていました。マリーアントワネットの実家のオーストリアでもマリアテレジアが飼っていて、フランスに来てからも、複数のパピヨンを飼っていました。
 
 
貴族たちは、美しいパピヨンをアクセサリーのようにはべらして暮らしていたのです。
 
 
マリーアントワネットらの肖像画をたくさん書いている女性画家のヴィジェ・ルブランは、亡命先のイギリスへ海を渡るとき、何より先に愛するパピヨンを連れて出たのだそうですよ。
 
 
マリーアントワネットは、コンコルド広場の断頭台に上がるまで、最愛のパピヨンを抱いていたという説があります。
 
 
実際は、彼女は後ろ手を縛られて荷台に乗せられたのでそこまで一緒ではなかったと思われますが、できる限り最期まで連れていたのは確かなのでしょう。
 
 
そんな貴族の代名詞のようになったパピヨンにも、民衆の憎悪の矛先が向けられました。多くのパピヨンが虐殺されたのです。
 
 
民衆の一部は暴徒化した野獣のようなものだったので、もうめちゃくちゃです。

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