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戦国時代には、何人か戦国最強と呼ばれる武将がいますが、島津義弘も間違いなくその1人です!
 
「鬼島津」と呼ばれ、数々の戦歴を持つ勇将ですよ。
とにかく「漢」という感じで、かっこいいのです!!!!!!
 
今回は、この薩摩の武将・島津義弘を、関ケ原の戦いを中心に紹介します。

 

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島津義弘は、どんな人だった?

 

 
島津義弘(1535年~1619年)は、とにかく強い!という伝説の武将です。
 
彼は、薩摩国守護・島津貴久の次男として生まれます。
後に「島津四兄弟」と賞賛されることになる長男・義久、三男・歳・四男・家久と同じ、亀丸城で生まれ育ちます。
 
数々の武勇を残しますが、85歳で畳の上で大往生しました。
彼の戦績を見ていくと、これは奇跡のようにも思われます。
 
初陣は19歳で、初めて敵大将の首級を挙げたのは、なんと22歳のときでした。
豊臣政権の朝鮮出兵に参加し、水軍と戦って敵の大将を討ち取っています。
 
85歳で死去した時には、義弘の後を追い13名もの家臣が殉死しました。
当時は、殉死禁止令が出ていたにも関わらずです。
家臣からも、たいへん尊敬されていたと分かります。
 
島津義弘の伝説の中で、もっともお伝えしたいのが、関ケ原での敵中突破です。
 
もともと1500人しか参戦しなかった島津軍が、300人ほどになっての敵陣突破の退却劇は、後に敵将からもあっぱれと称賛されます。最終的に生き残ったのは80人ほどだったそうです。
 
それでは、島津義弘の「関ケ原の退き口」を見ていきましょう。

 

1,500人の島津軍

 

 
豊臣秀吉の死後、島津家では反豊臣的な兄・義久と親豊臣的な義弘の間でぎくしゃくした状態にありました。
 
島津は、もともと10000の軍を持つ大大名なのです。
 
しかし、義弘は大阪に、兄の義久は薩摩にいたため、義弘は薩摩の兵を動かす権限をもたず、当初、大坂にいた兵はたった200でした。それを聞きつけて義弘を慕う薩摩の家臣が、自力で薩摩から駆けつけたと言います。これも義弘の人望のなせる業です!
 
その結果、なんとか1500人の軍勢に整ったのでした。
 
1600年、義弘は徳川家康から援軍要請を受けていたため、その1500の軍勢を率いて伏見城に行きました。
 
しかし、伏見城で籠城していた鳥居元忠に、そんな話は聞いていないと入城を拒否されてしまうのです。
 
そこで、ぶっちぎれて一線を交え、東軍として参加するつもりが、仕方なく西軍に与したと伝わります。(この話は、後の徳川家による創造ともいわれます。)
 
西軍の陣営に行くと、大大名の島津家がわずか1500ほどの兵しか率いて来なかったため、石田三成ら西軍の首脳陣は、義弘を軽視します。
 
そして、その後も義弘が作戦会議で出した夜襲策が却下されて関ケ原での野戦に決まったり、甥の島津豊久の部隊が前線で見捨てられそうになったりと、義弘にとって戦意を失う事が続きました。
 
もう、合戦前から、義弘にとって、イラっとくることだらけですね。
 
そうして、関ケ原の戦い当日、島津義弘は、甥・島津豊久を先陣に、西軍・石田三成の先手・島左近の南側にある桑畑に陣を敷きました。
 
合戦が始まると、東軍の攻撃は、西軍の主力部隊・石田三成と宇喜多秀家の陣営に集中したので、始めは、石田三成と宇喜多秀家の間に陣取っていた島津の陣営は、あまり攻められませんでした。
 
島津義弘は、戦いが始まっても守りに徹して積極的に戦わず、攻めてきた東軍を鉄砲で追い返す程度でした。すっかりやる気がありません。その後、石田三成から直接援軍要請があっても、動く気配を見せませんでした。石田三成の嫌われっぷりが、ここでも発揮されてるのかと思えてしまいます。
 
戦いが始まってから数時間は、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続きました。
 
しかし、午後2時、小早川秀秋の寝返りにより、形勢が傾きます。
 
西軍の石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊が総崩れとなり、敗走を始めたのです。
 
こうして、天下分け目の決戦は、わずか数時間で決着がついたのでした。
その結果、島津軍は退路を断たれ、敵中に孤立してしまいます。
 
絶体絶命の大大大ピンチですよ!!!Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

島津の退き口


 

 
石田隊、宇喜多隊、小西隊が総崩れとなると、島津軍の西には、それを追撃する東軍が充満し、既に退路が断たれていました。
 
南には、東軍に寝返った小早川秀秋の軍勢がいて、北と東には、東軍の主力部隊がいます。
 
島津義弘は四方を完全に包囲されており、退路はどこにもありませんでした。
そして、このとき、島津軍はすでに300人程度になっていました。
 
決断を迫られた島津義弘は、もっとも勢いのある東方から南進する「中央突破」の退路を選びます。
 
島津軍は、東方の敵を引きつけながら、先陣を甥の島津豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣形で、敵中への突撃を開始しました。

 

捨て奸(すてがまり)の戦法


 

 
このときの、島津軍は主君・義弘を守るため、「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる戦法で戦います。
 
これは、何人かが留まって敵の足止めをして戦い、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという、家臣が捨て身で敵を食い止め、主人を逃がす時間を稼ぐという壮絶な戦い方でした。
 
東軍は、火の玉のように駆け抜ける島津軍の殺気に負けて、道を空ける者が続出します。猛将・福島正則も殺気に満ちた島津軍には手を出さず、島津軍を見送ったといわれます。
 
徳川家康の本陣の近くを一気に駆け抜けようとすると、これに気づいた東軍の井伊直政・本多忠勝・松平忠吉が、島津軍を追撃しました。
 
このとき、島津軍の撃った鉄砲の弾が井伊直政に当たり、井伊直政が落馬します。井伊直政はこの時の鉄砲傷が原因で、2年後に死亡しました。
 
関ケ原の戦い後も、東軍は島津軍を追撃しましたが、松平忠吉の負傷などもあり、伊勢街道を一里ほど南下した所で、島津軍の追撃を諦めて引き返しました。
 
結果は、甥・島津豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが戦死し、多くの兵が犠牲になりましたが、東軍も井伊直政や松平忠吉が負傷し、家康からの追撃中止命が出されたこともあって、義弘は奇跡の敵中突破に成功したのでした。

 
 

関ケ原の戦い!東軍の勝因は小早川秀秋の裏切りだけではなかった!

 
 

本国・薩摩へ帰国

 

 
関ヶ原を脱出した後も、義弘は兵糧にも事欠き、大阪へ到着するまで、苦労の連続でした。大阪までたどり着けた島津軍は、たった80人程度になっていました。
 
それから、人質として大阪屋敷に置いていた島津義弘の正室と島津忠恒の正室を保護した後、島津軍は、船4艘で海路から本国・薩摩に帰ったのです。
 
島津義弘が率いた島津軍は、敵の東軍の武将たちからも賞賛されました。
 
そして、薩摩へ帰国した後、義弘は家康に恭順の意を示すため、桜島に蟄居しました。
 
徳川家康の要請に応じて上洛した他の西軍の大名たちは、家康になんくせをつけられて、改易されたり大幅な減封を受けたりしました。
 
島津家も上洛を命じられましたが、本土安堵を保証されない限り上洛はしないと拒否し続けます。
 
そして、関ケ原から2年後、一石の領土を取り上げられることもなく、島津家は、本領安堵に成功したのです。島津家の外交手腕の賜物です。
 
島津義弘は、東軍の井伊直政本多正信による徳川家康への取り成しがあり、赦免されました。
 
イケメン武将・井伊直政は、やることも男前ですね。
直政は、島津軍追撃中に受けた弾傷がもとで、この後、まもなく亡くなります。

 

おわりに

島津義弘は、この関ケ原の戦いの他にも、九州での戦いや朝鮮出兵などで、数々の武勇伝を残しています。
 
強いだけではなく、戦局を見極める素晴らしい決断力があった武将です。
また、家臣に信頼され、敵将にも称賛されるというカリスマ性の持ち主だったと分かります。
 
戦国最強と呼ばれるのも、納得なのでした。(´・ω・)

 

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