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こんにちは。
ここでは、これまで書いた「源平の合戦」の記事を『平家物語』に沿って、順にまとめました。『平家物語』は、学校の「古文」で習うし、入試問題でもよく出題されます。
全体の流れやあらすじを、さらっと知っていると、当然分かりやすくなりますよ。史実とフィクション(『平家物語』)の違いを押さえながら、読んでいくのも楽しいです。
まずは『平家物語』の特徴を、押さえましょう。
冒頭から切なさ全開の『平家物語』
『平家物語』は、ただの軍記物ではなく、平氏の興亡を描いた叙事詩的歴史文学でもあります。
全編をつらぬく無常観が、日本人の好みにドンピシャな感じですね。
“滅びの美” ですよ。
他には、全体的に仏教思想が濃いですが、儒教色も強く表れているお話です。
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の
理(ことわり)をあらはすスポンサーリンク
一度は目にしたことのあるこの冒頭・・・
他にも中学・高校で、「富士川」「木曽の最期」「宗盛」「那須与一」「敦盛の最期」「壇ノ浦」など、古文の教科書に、たくさん取り上げられています。
それでは、サッとあらすじをみていきましょう♪
平清盛と後白河法皇の対立
ときは、平安時代末期、「保元・平治の乱」を制した平清盛は、武士のトップとなっただけでなく、貴族の仲間入りをし、官位を上りつめてとうとう太政大臣になりました。
「平氏にあらずんば人にあらず」(by平時忠)
まさに我が世の春です。
武士の分際にそんな風に宮中でのさばる平氏に対し、朝廷は強い不快感を持ちます。そして、後白河法皇側近の俊寛らが、鹿ケ谷(ししがたに)で平家打倒の陰謀を企てますが、これは失敗に終わりました。(鹿ケ谷の陰謀)
そして、俊寛は藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(薩摩国)に流されます。
その後、後白河法皇の第二皇子以仁王(もちひとおう)が、各地の武士に呼びかけ兵をあげますが、宇治の平等院の激戦で討ち死にします。
源氏の台頭と平氏の都落ち
ここら辺から、本格的な「源平の合戦」に入っていきますよ!
1180年6月、平清盛は、福原に遷都します。
そして、その年の10月、伊豆に流されていた源頼朝が、以仁王の宣旨を受け取り、兵をあげ、「富士川の戦い」が勃発しました。
7万余騎の平氏軍は、水鳥の立つ羽音を敵襲と聞き違え、一矢も射ずに退散して、源氏軍は不戦勝でした。(史実はちょっと違います)
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この戦いの後、源頼朝・義経が兄弟の対面をしています。
その後、1181年3月20日には、平清盛が、謎の熱病で病死しました。享年64歳でした。
1183年5月、木曽の源義仲(木曽義仲)が信濃で兵をあげます。そして、「火牛の計」で知られる「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」が起こりました。
対戦相手の平氏の大将は、「富士川の戦い」と同じ・平維盛です。
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「倶利伽羅峠の戦い」の後、1183年6月22日に加賀で「篠原の戦い」が起こりました。
この戦いで、平氏方の老武者・斎藤実盛が、源氏方・木曽義仲軍の武将・手塚太郎光盛に討ち取られ、「あっぱれ」な最期を遂げました。『平家物語』でもよく知られている「実盛の最期」です。
老武者・斎藤実盛の、潔い武士らしい最期は、木曽義仲だけでなく、今も多くの人に、畏敬の念をもって語り継がれています。
後白河法皇と結んで「朝日将軍」となった木曽義仲が京へ迫ってきたと聞き、平家一門は都を脱出しました。彼らは、安徳天皇(清盛の娘徳子の息子で3歳で即位)を奉じて、西へ西へと落ち延びていったのです。
クライマックスへの序章
ここからは、戦いに続く戦い、クライマックスへ向けて、攻める源氏、逃げる平氏という図式で突き進みます。
源氏は、木曽義仲を破って、源頼朝が不動のトップの位置につきました。
後白河法皇に裏切られて京を出た木曽義仲は、1184年1月、源頼朝の命を受けた源範頼・義経の軍勢と戦い、「宇治川の戦い」で惨敗、源義仲(木曽義仲)は、討死しました。
今井四郎兼光と巴御前がやたらとかっこいい「木曽の最期」です!
このころ平家は、大軍を一ノ谷(神戸市須磨区)に結集していました。
義仲を破った義経は、翌2月には須磨に到着、山中を迂回して背後の鵯越(ひよどりごえ)からまさかの奇襲を行います。「鵯越の逆落とし」で有名な「一の谷の戦い」です。浮足立った平氏は、船で逃走しました。
このとき逃げ損ねたのが、若干17歳にして笛の名手の美少年武者・平敦盛です。有名な「敦盛の最期」のシーンですよ。
その後も、義経の進撃は止まりません!
1185年2月、義経は四国の屋島(香川県)で、平氏を背後から急襲し、平知盛率いる平家軍は、追われて長門(山口県)へ逃れました。
弓の名手・那須与一が「扇の的」を披露したのは、この「屋島の戦い」のときです。
「壇ノ浦の戦い」で平氏滅亡す
一か月後、壇ノ浦で知盛率いる平氏の軍に、義経の軍が襲いかかります。武運尽きた平知盛は、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と、碇をかついで入水しました。
清盛の妻、二位尼(にいのあま)も孫の安徳天皇を抱いて入水しました。
天皇の母(清盛の娘)・建礼門院徳子も入水しましたが、熊手で救助されました。彼女はその後出家して、大原奥の寂光院に移り住みました。
義経の最期
そうして、平氏を滅ぼすと、くすぶっていた頼朝・義経兄弟の勢力争いが、とうとう表面化していきます。
京で挙兵した義経に従う兵は少なく、後白河法皇にも見捨てられてしまい、とうとう追討の宣旨を出されてしまいました。朝敵となった義経は、頼朝に追われます。そして、まずは吉野に隠れ、2年後には奥州平泉の藤原秀衡のもとへ下りましたが、やがて討伐されて自刃します。