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こんにちは。
 
 
「応仁の乱」の幕開けは、なんだったと思いますか?
 
 
畠山家の家督争いによる武力衝突が、そのはじまりでした。
 
 
両軍それぞれ、各3000騎ほどの軍勢だったと言われますが、実際に、この場所を見てみると、「どうやったら、ここにそんな人数集まるん?」と不思議です。
 
 
この乱の主な戦いの舞台は、ずっとこの「御所~相国寺~神御霊社」というすっごく狭い範囲内なのです。
 
 
当時は、今ほど建物が建っていなかったとしても、「徒歩で行ける距離やん♪」と思ってしまうのでした。
 
 
そんな所に大勢で馬に乗って来たって、戦いにくいだけですよ~!
 
 
まずは、今回のテーマ「上御霊前社の戦い」の流れを、お伝えします。

 
 

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「応仁の乱」の主な合戦は1467年の3つ

 

 
「応仁の乱」は11年続きますが、大きな戦いは、1467年、つまり勃発した年の3つの戦いに集約されます。
 
(1)上御霊社(かみごりょうしゃ)の戦い(1月18日)
(2)洛北の合戦(5月26日)
(3)相国寺(しょうこくじ)の合戦(10月3日)

 
その初めの戦い「上御霊社(かみごりょうしゃ)の戦い」は、1467年1月18日に起こり、戦闘は翌朝には終わりました。

 
 

一晩で終わった!「上御霊社の戦い」

 

 

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戦いの始まりは、畠山政長の出陣!

 
 
この戦いは、畠山政長が、武力に訴えたところから始まりました。
 
 
将軍・義政が、管領職と屋敷を政長から取り上げ、畠山義就に渡すように命じたことに不服があったのです。畠山義就の後ろには山名宗全がついていました。
【関連記事】
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応仁の乱】なぜ細川勝元と山名宗全は対立していたのか?
 
つまり、畠山政長 VS 畠山義就の戦いです。
 
 
1月18日の早朝、このままでは気が済まなかった畠山政長は、明け渡すようにいわれた自分の屋敷に、火を放ちました。
その後、自宅から2kmほど北にある上御霊社(御霊神社)に陣取って、戦闘準備を始めます。
 
 
これが、この乱のきっかけでした。
 
 
これを受けて、午後2時頃には、政長の屋敷と「上御霊社」の間に位置する「御所」にいた後土御門天皇後花園上皇が、御所から逃げ出し、すぐそばにある「花の御所」に非難しました。(京都御所と花の御所は、徒歩圏内です)
 
 
午後3時には、政長を討つために、畠山義就が3000騎の軍勢を率いて、「上御霊社」に向かいます。畠山義就には、山名宗全の息子(孫?)の政富と、朝倉孝景の軍も味方していました。
 
 
義就らの出陣により、政長のいる「上御霊社」は、三方を囲まれました。
 
 
そして、午後4時頃、とうとう戦闘が始まります。
戦いは夜を徹して行われましたが、終始、畠山義就が優勢だったようです。

 

 

畠山義就の圧勝で終わる!

 

 
夜中に戦闘が続き、翌日19日の早朝になると、堪えきれなくなった政長が社殿に火を放って逃亡してしまいます。
 
 
そして、敵陣を突破して、政長は後ろ盾になっていた細川勝元邸に逃げ込みます。
 
 
細川勝元は政長の味方でしたが、このときは出陣せず、それが冷たい対応だったと後に批判されました。
 
 
御霊神社は、今の京都地下鉄「鞍馬口駅」と「今出川駅」から徒歩圏内です。
 
 
「鞍馬口」からのほうが近いですが、「今出川」は京都御所、相国寺、花の御所跡(同志社大学寒梅館から南へ、大聖寺・今出川通りまでのエリア)のすぐそばなので、ゆっくり散策する時間のある人にはおすすめです。
      ↓
【御霊神社】〒602-0896 京都府京都市上京区上御霊竪町495
鞍馬口駅1出口から徒歩約4分・今出川駅1出口から徒歩約11分

 

 
 

 

山名宗全と細川勝元の対立が鮮明になった

 

 
この戦いは、義就の勝利に終わります。
 
 
戦力は同じぐらいでしたが、義就は、河内国や大和国で戦い慣れした百戦錬磨だったため、圧勝でした。
 
 
といっても、両軍合わせて戦死者は、数十人ほどだったようですよ。小競り合い程度ですね。
 
 
6000人の軍勢は、威嚇するために集めただけで、実際に戦ったのは、ごく少数なのでしょう。狭すぎて動けなかったと、思います。戦国時代の野戦のような戦場でなかったのは、確かですよ。
 
 
この戦いの前に、将軍・義政は、細川勝元と山名宗全に、「この戦いは畠山の死闘であり、加勢することは許さない」と告げていました。
 
 
細川勝元はそれに従って出陣しなかったのですが、山名宗全は戦いに参加します。(息子を参加させた)
 
 
なぜかというと、山名宗全は、このとき、後花園上皇を味方につけていて、政長追討の院宣を出してもらったのです。
 
 
宗全は、根回しがいいですね。
「錦の御旗」を手にいれることに成功していたのです。
 
 
一方、細川勝元は、政長に加勢しなかったということで、京の町衆から卑怯者扱いされます。
 
 
当時、武士がとっても大事にしていた「武士のメンツ」が丸つぶれです。
 
 
細川勝元は、名門エリートですよ。「武士のメンツ」をつぶされたことが、次の争いの火種として残ったのは間違いありません。
 
 
これで、細川勝元と山名宗全の対立が、決定的になったのでした。
 
 

↓【応仁の乱まとめ記事・完全版】↓

【応仁の乱」その後も含めて簡単にまとめた7つのポイント

 
 
 

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