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こんにちは。
この記事は、いろいろややこしい「応仁の乱」についてまとめたページです。
「応仁の乱」の主要人物は・・・
将軍家ー足利義政・日野富子・足利義視・足利義尚
東軍ー細川勝元・畠山政長
西軍ー山名宗全・畠山義就・大内政広
微妙に多いですね。
細川勝元と山名宗全がよく知られていますが、私は畠山義就がキーパーソンだと思いますよ。
目次
1.京の町は飢饉、室町幕府はすでに衰退していた
室町幕府はもともと武家諸侯のまとめ役のような存在で、強大な軍事力を持たない弱い政権でした。
そのため、優れた政治力のあった3代将軍義満の御代を頂点にして、その求心力はどんどん衰えていったのです。
また、この時期の西日本は天候不良から大規模な凶作に見舞われていて、都には中国地方から食糧を求めた多くの人が押し寄せていました。
京の都には、そんな人口を養う蓄えは当然ありません。そうして、京の都も食糧難に見舞われてしまったのです。
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2.乱のきっかけは、畠山家の家督争いだった
まず、管領の1つの畠山家で、畠山持国が亡くなった後に家督争いが起こりました。
幕府は、細川勝元が後見に立った畠山政長を管領に任命しました。つまり、畠山家の後継と認めたのです。
ところが、その後、家督を争っていた畠山義就が、山名宗全の後押しで河内国から戻ってきたのです。
そうして、畠山政長と畠山義就の間の家督争いは、とうとう武力抗争に発展してしまいました。それが、「応仁の乱」のはじまり「上御霊社の戦い」です。
畠山家の家督争いに、管領の細川勝元と山名宗全が絡んでいたのです。
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3.足利将軍家の跡目争いが追い打ちをかける
将軍足利義政は、絶え間ない権力者間の争いに愛想が尽きて将軍職を退きたくなりました。
義政には嫡男がいなかったため、僧侶になっていた弟の足利義視を呼び戻して次の将軍になってくれと頼んだのです。そして、管領の細川勝元に義視の後見を依頼しました。
ところが、その1年後に正妻の日野富子が男子を出産したのです。富子は、もちろん我が子を次の将軍にと望みました。
そして、息子・義尚の後ろ盾を山名宗全に依頼して、義視と跡目争いをするようになったのでした。
ここでも、またまた細川勝元と山名宗全が対立することになったのです。
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4.有力守護大名・細川勝元と山名宗全の勢力争い
そもそも「守護大名」とはどういう人たちのことなのか、また、「応仁の乱」の東軍・細川勝元と西軍・山名宗全とは、一体、どういう人だったのか、こちらの記事にお伝えしています。
山名宗全と細川勝元は親子ほど年が離れていて、実は義理の親子でした。(山名宗全の娘が細川勝元の嫁になった)
この2人は性格も戦い方も全く違っていて、好対照で興味深いです。
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5.力をつけた国人と足軽の台頭が都を荒廃させる
守護大名の下で働いていた地侍は「国人」と呼ばれました。彼らは、荘園で田畑を耕し、守護大名に年貢を納めていたのです。
また、この時期に、地方からやって来て武士の下で働く「足軽」と呼ばれる人々が台頭します。
彼らは、戦の役に立つどころか盗賊やならず者も多く、戦乱の混乱に乗じて火付けをして物取りをするような無頼者が続出したのです。
京の町を焼け野原にしたのは、実際には東軍西軍の戦いではなく、足軽たちの横行によるのもだったともいわれます。
彼らは京都の町だけでなく、神社仏閣にも火を放ちました。
また、このころ京の町に一人の托鉢僧が現れます。
それが、「一休さん」でおなじみのとんちで有名な一休和尚でした。
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6.乱の中から花開いた、足利義政の東山文化
8代将軍・足利義政は、応仁の乱で都を混乱させながら、その一方で文化芸術の発展、文化人の保護という大きな功績を残しました。
室町時代は、能、茶道、華道、庭園、建築、連歌など多様な芸術が花開いた時代で、それらは次第に庶民にも浸透し、今日に続く「和風文化」の礎となりました。
義政の時代に広がったこの文化は、「東山文化」と呼ばれます。
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7.「下剋上」の時代と「小京都」の出現
この乱で、都は文字通り焼け野原になりました。
多くの神社仏閣が焼け落ち、主戦場となった相国寺や南禅寺のような「五山」まで破壊されてしまいます。
今、私たちが京都観光で訪れる八坂神社や清水寺、伏見稲荷大社などは、すべて応仁の乱の後に再建されたものなのでした。
最後に、「応仁の乱」後の日本社会の変化についてお伝えします.
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