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こんにちはー♪
応仁の乱は、東軍と西軍に分かれて戦われました。
そして、その大きな3つの原因は、こちらでした。
(また書きます、すみません)
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(1)将軍家の世継ぎ問題
(2)畠山家・斯波家の家督争い
(3)守護大名・国人たちの争い
(3)の守護大名の争いの双璧を成すのが、この乱の東軍・西軍の大将です。
東軍の大将が管領の策略家・細川勝元
西軍の大将が四識の武闘派・山名宗全
この2人、すごく対照的な性格をしていて、おもしろいですよ。
そして、対決の最後をネタバレすると、この決着、双方が亡くなってすぐに、息子の代で和睦しようとします。
1473年に山名宗全が亡くなり、その約2か月後に細川勝元も亡くなるのです。
どちらも病死といわれています。
結局、東軍・西軍の戦いは、勝敗がつかなかったということです。
「勝者なき戦乱」と言われる所以なのですね。
応仁の乱は、それから3年後の1477年まで続くんですよ。
東軍・西軍の和睦は、畠山の反対で、なかなかうまくいかないのです。まだまだ問題(畠山家と大内家の問題など)が残っていたのでした。
目次
対照的な2人の大将
「応仁の乱」勃発時の年齢は、細川勝元が38歳、山名宗全が64歳でした。
勝元より宗全のほうが26歳も年長なのです。
応仁の乱のとき、宗全は、もう少し考えてから行動に移せばよいのにと思うようなことをしていますが、年齢的な焦りもあったのでしょう。
勃発時に、すでに60歳を超えていたというのを、ちょこっと頭の片隅に入れておくと良いでしょう。
風雅を愛する策略家・細川勝元
細川勝元は、和歌の名人で絵画鑑賞などの趣味を持つ風流人です。
医療や料理にも精通していた多趣味な人で、鷹狩などのオシャレなスポーツも得意でした。
名門・細川家のプリンスで、将軍・義政とも仲が良く、16歳で管領に抜擢されています。
スマートでかっこいいおじさまという感じがしますね。
直情的な行動派の赤入道・山名宗全
山名宗全は、向こう意気の強い武闘派の64歳のおじいちゃんです。
38歳のときに出家して「宗全」は法名ですが、バリバリの生涯現役派です。
将軍・義政の父「万人恐怖」の義教の頃から、幕府に仕える重臣でした。
でも、義政とは、義教を暗殺した赤松家の処分をめぐって対立し、あまり仲良くありません。
赤入道というあだ名があり、勇猛果敢で戦上手な武闘派大名です。
始めは仲良しだった二人
細川勝元は、13歳のときに父の持之が亡くなり、家督を相続します。
13歳で名門を継ぐって、すごく大変なことですよ。
この頃、勝元は、同じ三管領の1人の畠山持国(畠山義就の父)と対立していました。
すでにこの頃から、大名たちは、二手に分かれてグズグズと争っています。
そのとき、細川勝元を助けていたのが、なんと山名宗全でした。
山名宗全は、娘を勝元の正室にし、舅になっています。
畠山家・斯波家の相続で決定的に仲違いした
勝元と宗全の仲が険悪になった原因は、複数ありますが、他家の家督争いに介入したことが大きいです。お互いがけん制し合っているのが、よくわかります。
応仁の乱前夜の有力者たちで、国の行く末を真剣に考えている人は、いたのでしょうか。
みんな「自分の利益だけ」を考えていたように思えます。
将軍も有力大名も国人も足軽も、乱の当事者はみんな自分が有利になること、自分の権勢を強めること、そして、突出した権力を持ちそうな人の足を引っ張ること、こればっかり考えていたようです。
将軍・義政が赤松家を再興したのは、山名宗全の力をそぐことが目的でした。
それに、細川勝元も同調します。
畠山家・斯波家の家督相続候補は、細川・山名がそれぞれの後ろ盾になって代理戦争のような形になっていました。
また、「敵の敵は味方」という感じで、細川と日明貿易の利権をめぐって争っていた大内家は、山名家につきます。
そんなこんなで、都だけに収まらず、地方の人たちをも巻き込んで、細川派・山名派と別れていくのです。
でも、それぞれの家の人も、「自分の利益」しか考えていません。
ですから、自分の都合のよいように、平気でコロコロ東軍から西軍へ、またその逆へと鞍替えするのです。
「誠」とか「義」とかいう「武士道」が、まだ確立していない時期です。
当時の武士は、「武士のメンツ」ばかり気にしていました。
きっかけは畠山義就のクーデター
畠山家の家督は、細川家を後ろ盾にする畠山政長に決まりました。
山名宗全は、全然おもしろくありません。
「応仁の乱」の戦いは、この畠山政長を追放し、高野山に逃げていた畠山義就が管領に返り咲くクーデターから始まります。それを、援護したのは、もちろん山名宗全でした。
ついでに、この畠山義就という人は、なかなかの重要人物ですよ。
すでに、戦国武将のような性格をしているキーマンです!
ちなみに、将軍・義政は、管領職を政長に与えておきながら、事件が勃発すると、それを取り上げ、手のひら返しのように義就を管領に任命しました。
なぜかって?
保身のためでしょうね。
自分のことしか考えていない将軍です。
いや、もしかしたら、なんとかしなければと思っていたのかもしれませんが、後手後手に回ってしまうんですよ、この人。
決断が遅すぎて、どうしようもなくなるのです。
最後まで、そういう人でした。
かつして、強力なリーダーシップを持つ人が存在しないまま、11年に及ぶグズグズな乱のきっかけができたのでした。
次回は、とうとう始まった! 「応仁の乱」の幕開け、「上御霊社の戦い」についてお伝えします。
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