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こんにちは!
今回は「英仏百年戦争」について!
この戦争で一番よく知られているのはジャンヌダルクの活躍ですね~♪
彼女はこの戦争の最終局面に登場した女戦士でした。
でも、他にも活躍した人はもちろんたくさんいます。
私の一押しは、エドワード黒太子。
百年戦争初期に活躍したイングランド(イギリス)の王太子です。かっこいいです!
その他にも・・・
ベルトラン・デュ・ゲクラン
ヘンリ5世
ラ・イール
ジル・ド・レ
シャルル7世
などが活躍します。みなさん英仏では超有名歴史人です。
今回は、百年戦争の100年間の流れを、さらっと簡単にお伝えしますよ。
目次
◆英仏百年戦争をすっきり解説!
1.「百年戦争」はいつからいつまでどこが戦った?
百年戦争は、1337年(1339年説あり)から1453年にかけて起ったフランスとイングランド(イギリス)との戦いです。
1世紀以上続いた長い戦いです。でも、実際に、100年以上戦い続けていたわけでは、もちろんありません。
なぜなら、戦争というのは、莫大な費用と人材が必要になる事業です。あまり長引かせると国力が落ちてしまいます。領民が減ると生産業がおろそかになって飢饉を招いてしまうのです。
戦争を何十年もし続けることはできないんですね。
なので、この百年戦争も、だらだら続いたり、ほとんどが休戦中だったりします。きちんと講和条約が結ばれていなかったという状態でくすぶっていたんです。
その間で、戦争があったときの英雄が、上にあげた人々です。
では、その百年ぐずぐず続いた戦争のきっかけと2国の目的はなんだったのでしょう?
2.きっかけはフランス「カペー朝」の断絶
フランスとイングランドとのこの戦いは、そもそもなぜ起こったのでしょう。
直接的な原因は、フランス王室「カペー家」が1328年に断絶してしまったことでした。カペー家は、約400年続いた王家でした。
15代順調に続いたのですが、ここにきてなぜか王位継承者の夭逝が続き、とうとう途絶えてしまったのです。
その王朝断絶の危機に慌てふためいていたとき、1337年にイングランドの王エドワード3世が口出ししてきたのです。
「俺にもフランスの王位継承権あるけどー。」
実はイングランド王家は、もともとノルマンディー人、つまり、フランス出身の人たちなのです。
そして、当時、イングランドの王家や貴族は、大陸(フランス)内にも領地を所有していました。つまり、近い親類みたいな関係だったんです。
エドワード3世は、シャルル4世の姉妹・イザベルの子供だったので、シャルル4世の甥っ子にあたりました。
話し合いで解決できなかった場合、残る道は戦争です。そして、言い出しっぺのエドワード3世は、戦争したくてうずうずしていました。
この2国の間には、ギュイエンヌ地方・フランドル地方という領土争いもあったのでした。
それらが重なり、エドワード3世がフランスのフィリップ6世に宣戦布告して、1339年に「百年戦争」が始まったのです。
3.前半戦の英雄・エドワード黒太子
この好戦的なエドワード3世は、変な王様続きだったイングランドようやく登場したしっかりした王でした。
彼は演出力のある指導者だったようで、イングランド人が敬愛する「アーサー王」の宮廷をまねしたり、最高栄誉賞の「ガーター勲章」を造ったりしています。
そして、ガーター騎士団なるものも創設しました。
そのガーター騎士団に若干18歳で選ばれた彼の息子が、百年戦争前半戦のヒーロー・エドワード黒太子です。
めっちゃかっこいいです!
「ブラック・プリンス」と呼ばれるのは、黒い甲冑姿をしていたからといわれます。
当時のイングランドの最先端武器は、ロビンフッドでおなじみのロングボウ(長弓)でした。ブラックプリンスは、このロングボウを用い、自ら率先して戦場に立ちました。
イングランド軍はこの飛び道具で、いまだ重装歩兵のフランス軍をなぎたおしていったのです。飛び道具VS騎兵・歩兵となると「長篠の戦い」と同じ図式で、騎兵側が恰好の的になってしまいますからね。
エドワード黒太子は1346年のデビュー戦「クレシーの戦い」で、若干16歳で大勝利を収めました。
その後も百年戦争前期の主要な戦闘に参加し、ほとんど勝利しています。特に1356年の「ポワティエの戦い」ではフランス王ジャン2世を捕虜にして、イングランドの勝利を決定的にしたのです。
4.ヘンリ5世のノルマンディー上陸
1375年、いったん休戦となったこの戦いは、フランス王家がグズグズの内乱状態にはまって再燃しました。
イングランドのヘンリ5世がフランスに進撃してきたのです。
時代が下ったので、登場人物が世代交代していますよ。
ヘンリ5世は、(エドワード3世→リチャード2世→ヘンリ4世)の次の王です。リチャード2世は、エドワード黒太子の息子にあたります。
エドワード黒太子は父王より1年早く亡くなったので王位に就きませんでした。
ヘンリ5世は、「アジャンクールの戦い」(1415年)で猛攻撃し、この戦いでフランス貴族の4割以上が死亡したともいわれます。なんだかこの戦争は、始まってからずっとイングランド軍が押しっぱなしです。
このときのフランス王はシャルル6世でした。
1422年、イングランドのヘンリ5世が急死し、2カ月後にフランスのシャルル6世も亡くなったため、事態は再び暗礁に乗り上げました。
次のイングランド王ヘンリ6世はまだ赤ちゃんで、フランス側のシャルル7世はブルゴーニュに退き、そこで体制を立て直すことにしました。
5.ジャンヌダルクの登場でクライマックスに!
このフランス王シャルル7世のときに登場したのが、オルレアンの乙女・ジャンヌダルクです。
そもそもフランスは、遠征してくるイングランド軍と違って、大きな穀倉地帯を持つ国でした。
それがなぜこれまでフルボッコ状態で負け続けていたのか・・・
それは、戦いに絶対不可欠な士気と団結が不足していたからなのです。
ジャンヌ・ダルクはフランス軍の士気を見事に立て直しました。
そして、ジャンヌ・ダルクを支えた2人の武将ジル・ド・レとラ・イールが、フランス軍の戦術を見直し、フランス軍を強化しました。
彼女は途中で哀れな最期を遂げますが、フランス軍は1451年、「カスティヨンの戦い」で勝利を決定的なものとしました。
武器も進化し、イングランドの長弓に対抗できる大砲を用いた戦法に代わっていったのです。
一方、イングランドのヘンリ6世は、しばしば精神錯乱におちいる気質で、大陸領土のほとんどを失ってしまい、政治汚職も増えて不評を買うようになっていきました。
王の精神錯乱はどんどん悪化し、1年ほどの間、自分の周りで何が起こっているか認識できないような状態が続いたのです。
そうして、上流貴族たちが、この狂王ヘンリ6世から王冠を奪おうとしてイングランドでは「薔薇戦争」が起こったのです。
◆戦争の戦果は2国ともに「愛国心」が芽生えたことだった
この戦争の結果、イングランドの大陸領はほぼ消失しました。そして、フランスの人口はペストの大流行も重なって約半分に減少したのです。
戦争が長引いた原因は、王権の弱体化でしたが、戦いの結果、王室の権威は高まって強固になりました。
ジャンヌダルクは今もフランス人の愛国心の象徴となっています。
イングランドでも、シェークスピアによる戯曲「エドワード3世」「ヘンリ5世」が人気を博しました。
この戦争によって、イングランド、フランス両国に自国への愛国心が芽生えたのです。
そうして、この2国はこれから長いライバル国へとなっていったのでした。
ジャンヌダルクについて、こちらでくわしくお伝えしています。
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