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こんにちは。
 
 
11年続く「応仁の乱」の1つの原因は、将軍義政の後の9代将軍のポストをめぐる争いでした。
 
 
銀閣寺で有名な将軍・義政と日野富子との間に生まれた嫡男が足利義尚(よしひさ)です。「応仁の乱」が始まる2年前に生まれました。
 
 
大変なときに、大変めんどくさい家に生まれています。

 
 

後継ぎ争いの勝者だが、わすか9歳だった

 

 
ポスト義政をめぐる叔父・義視(よしみ)との戦いは、息子の義尚(よしひさ)の勝利に終わりました。
 
 
でも、この人は、まったく戦っていません。
 
 
なぜかというと、将軍に就任したとき、義尚はわずか9歳だったからです。小3ぐらいですね。
 
 
この戦いは、母と叔父、その他の有力守護大名たちの欲望がからんだ、とってもややこしいものだったのです。
 
 
彼は、幼かったので、自分自身は戦うことも自分で考えて意思表示することもなく、定めとして9代将軍になったのでした。
 
 
それから、義尚への母の英才教育が始まったのです。

 
 

美少年系イケメンで、ついたあだ名は「緑髪将軍」

 

 
母の日野富子がめちゃくちゃ必死になるのも分かるほど、義尚はルックス抜群のイケメンでした。女性というのは、旦那に愛想つかすと、愛情と期待の全てを息子にかける生き物です、多分。(私は息子いないけど、そんな話を耳にします)
 
 
義尚は、美しく艶のある緑の黒髪をしていました。それで、ついたあだ名が「緑髪将軍」。いいあだ名なのか、ちょっと微妙ですけど・・・。
 
 
将軍職は目立つのも大事、「見た目がよい」というのは大きな武器になります。「後は中身だわ!」そう考えた母の日野富子、息子をインテリイケメン将軍に仕立てるために、一流の家庭教師を探しました。
 
 
そして、選ばれたのが、藤原氏の一条兼良でした。ちなみに、富子の日野家も藤原氏です。

 
 

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教養は抜群だった?文化人としては評価高い人

 

 
義尚は、和歌が好きで、その才能もあったようです。14歳のころから、歌会をひんぱんに開いています。『常徳院集』という自分の和歌集を出していますし、和歌集の撰者にもなっています。
 
 
やっぱり、文化系将軍だった父・義政の血を引いているのですね。
でも、彼の本職は「将軍職」です。「武」の棟梁ですよ。
 
 
頭のいい人だったので、そこのところはよく分かっていたらしく、「応仁の乱」後、失墜した将軍家の権威を取り戻そうと、努力はしたのでした。

 
 

頭でっかちで人の意見に耳を貸さず自滅

 

 
当時、近江の六角氏が、幕府に敵対していました。そこで、義尚は、幕府の名を上げるチャンスとばかりに、数千の兵を率いて、六角氏討伐に向かったのです。このとき23歳でした。
 
 
幕府軍が攻め込むと、六角氏の兵は、たちまちバラバラになって、山の中に逃げて行きました。
 
 
いい感じで勝てたので、このまま深追いせずに勝利宣言して戻ればよかったんです。
 
 
でも、義尚は大将の首を取るまでは帰らないと、さらに戦を続けました。家庭教師の一条兼良や側近たちがいさめても、耳を貸しません。
 
 
なまじインテリに育ってしまったので、人の意見を聞かず、頭が固い人間になってしまったのでした。
 
 
こうして、六角氏との戦いは、ゲリラ戦に持ち込まれて、グズグズと長引いてしまったのです。
 
 
このとき、義尚は、母の言う事も聞かない、というか、母親をすでにうっとおしく感じていたようで、誰の言う事も聞かなくなっていました。
 
 
なかなか京に戻らなかったのは、富子(母)の顔を見たくなかったからという説もあります。
 
 
この息子の気持ちは、なんとなくわかりますけど。私も日野富子が母親なら逃げたいです。

 
 

最後は25歳で病気で急死

 

 
義尚は、この近江の六角氏とのグズグズした戦いに、1年以上かけてしまいます。これはもう、やっぱり、帰りたくなかったのでしょうか。
 
 
そして、陣中で体調を崩して病気になってしまい、そのまま病死してしまったのでした。
 
 
まだ25歳です。これにはびっくり。
 
 
毒でも盛られたのかと疑いですが、そうでもなさそうです。義尚は大酒のみでした。陣中での生活の不摂生がたたって、脳溢血で死んでしまったらしいのです。
 
 
せっかく若くして将軍になったのに、ついでにイケメンで頭もよく芸術のセンスもあったのに・・・・
 
 
残念な人でした。

 
 

おわりに


この人は、生まれてすぐに「応仁の乱」の渦に巻き込まれるという、大変な時期に大変な家に生まれてしまったんですね。
 
 
一番気の毒なのは、日野富子の息子に生まれてしまったことかもしれません。成長すると、母とも父とも仲が悪かくなりました。
 
 
文化人としての才能はあったようなので、違う生き方ができていれば、頭の固いインテリじじいとして生き残れたかもしれませんね。
 
 
義尚亡き後、将軍職は父の義政に戻ります。でも、義政も9カ月後には、病で亡くなったのでした。
 
 
ややこしい戦い「応仁の乱」について、こちらにまとめています♪
  ↓
【応仁の乱」その後も含めて簡単にわかりやすくまとめた7つのポイント

 

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