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こんにちは。
 
 
1183年「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」で、源氏が平氏を圧倒しました。
 
 
この戦いは、「源平の争乱」の中でもターニングポイントとなる重要な戦いです。なぜなら、平氏の10万の追討軍が惨敗し、その後の平氏の命運を決定づける戦いとなったからです。
 
 
この戦いから2カ月後、木曽義仲の上洛直前に、平氏一門は都落ちしました。
 
 
今回は、木曽義仲の奇襲が大成功をおさめた「倶利伽羅峠の戦い」についてお伝えします。

 
 

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前哨戦「般若野の戦い」

 

 
1183年5月、北陸に攻め込んで来た平家軍と、木曽の源義仲(木曽義仲)の先発隊が般若野で激突します。
 
 
平家の大将は「富士川の戦い」で敗退した平維盛、源氏の先発隊の将は、義仲四天王の1人・今井四郎兼平です。
 
 
10万の平家軍に対し、今井兼平の軍はわずか5千でした。ま、数が多ければよいというものではないですが、有利なのは確かですね。土地勘のない維盛は、源氏から寝返った長吏斎明の案内に頼りながらの進軍でした。
 
 
平家は、今井兼平の機転の利いた陣取りに翻弄されて、大軍でありながら始終押され気味でした。平家軍は数だけは多かったけれど、寄せ集めの軍で、あまり統率がとれていなかったのです。
 
そう思うと、大将の維盛は、やっぱり気の毒です。

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5月9日、ついに越中富山の般若野で、源平の戦いが勃発しました。この戦いは、数で劣る今井兼平の軍が圧倒しました。平家方は、夕方には2千余りの負傷者を出して、小矢部河原まで撤退せざるを得なくなったのです。
 
 
その結果、今井兼平は、越中の死守に成功したのでした。今井四郎兼平は、最期までめっちゃかっこいい武将なのです!

 
 

夜襲「倶利伽羅峠の戦い」

 

 
平家軍は、その後2手に分かれます。平通盛率いる搦手(からめて)軍3万騎を志雄山へ向かわせ、大将・平維盛の本体7万騎は、砺波山に向かって進軍し、砺波平野を目指しました。
 
 
その頃、木曽義仲の本体は、越後から兵を集めながら越中に入り、5万ほどの兵を確保していました
 
 
木曽義仲は、平家の大軍が平野に向かっていると知り、なんとしても阻止しようと考えました。平野での合戦は、兵の数が多いほうが圧倒的に有利だからです。
 
 
義仲は、砺波山のふもとの日宮林(ひのみやばやし)に先発隊を派遣し、先回りして陣を敷き、源氏の白旗を高々と掲げたのです。
 
 
やがて、砺波山山頂に到着した平家軍は、源氏の白幡がはためくのを、目の当たりにします。
 
 
つまり、平野に降りることができなかったのです。

 

 

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(1)深夜の奇襲攻撃

 

 
5月11日夜、小競り合いが終わり、次の戦いは夜明けだと判断した平家軍は、山上で休眠します。行軍の疲れで、熟睡した兵士も多かったでしょう。
 
 
でも、それこそが、木曽義仲の作戦だったのです。
 
 
義仲軍は夜の闇に紛れて、平家軍を取り囲むように動きます。
 
 
まず、叔父の源行家率いる搦手軍1万騎を志雄山へ向かわせました。そして、木曽義仲の本体3万騎は倶利伽羅峠の北側に、樋口次郎兼光の3千騎、今井四郎兼平2千騎、小室太郎の3千騎、巴御前の1千騎を峠の周囲に配置します。
 
 
ただし、峠の南側だけは意図的に空けておきました。
そして、彼らは、じっくりとその時を待ったのです。
 
 
あたりが寝静まった深夜、夜の闇を引き裂くようなトキの声が上がりました。そうして、源氏軍は一斉に矢を射かけ、夜襲攻撃を起こしたのです。
 
 
狭く険しい山道で、真夜中に寝入っていた平家軍はパニック状態に陥りました。彼らはもう我先にと逃れることしか考えられず、意図的に空けられていた南側へと殺到してしまったのです。恐慌状態ですね。
 
 
でも、その南側には倶利伽羅谷(くりからとうげ)と呼ばれる深い切立った谷が口を開けていました。地の利のない平家軍は、その先に道があるのだろうと勘違いし、なだれをうって谷底へと落ちていったのでした。
 
 
その谷底の様子は、まさに地獄絵図だったといわれます。そのため、そこは今も、地獄谷と呼ばれています。

 
 

(2)奇策「火牛の計」

 

 
『源平盛衰記』では、このとき源氏軍は400~500頭もの牛の角に燃える松明をつけて、平家軍に突進させ谷底に落としたというエピソードがあります。
 
 
とても有名なエピソードなのですが、これは中国の『史記』の故事にちなんだ創作です。でも、この逸話は、「倶利伽羅峠の戦い」を語る上で欠かせない話なのでした。
 
 
つまり、それほどひどいパニック状態に陥ったということです。

 
 

義仲の進軍は続く・・・

 

 
「倶利伽羅峠の戦い」で、木曽義仲はほとんど刃を交える事なく、大軍の平家に圧勝しました。
 
 
平維盛は命からがら脱出に成功しますが、7万の本体はボロボロです。
 
 
志雄山にいた3万騎の搦手軍はこの惨敗の知らせを聞き、戦わずして撤退を開始します。平維盛は、その後、この搦手軍と合流しました。
 
 
そして、次の戦い、「篠原の戦い」で、源氏と平氏は再び刀を交えたのです。
 
 
それが、老将・斎藤実盛の最期の地の戦いです!
 
 
「実盛の最期」は、私の中で1、2を争う『平家物語』の感動エピソードなのでした。
 
 
続きです・・・(^^)⇒★「実盛の最期」

 

【源平の争乱のまとめ記事】
 

「源平合戦」の流れは『平家物語』を読むとわかりやすいよ!

 

 
 

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