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平安末期、武士の力が大きくなり源平の争乱が起こりました。そうして日本の統治は次第に公家から武家へと移っていくことになります。
 
 
平家を滅ぼし武家による全国統治を目指した源頼朝について、彼のしたことを中心にお伝えします。

 
 

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源頼朝の生い立ち

 

 
源頼朝は1147年に、源氏の惣領・源義朝の3男として生まれました。母は熱田神宮の神職・藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘です。
 
 
1159年に起こった「平治の乱」で、頼朝は父の源義朝とともに平清盛と戦いました。
 
 
しかし、平家の圧倒的な軍事力に源氏軍は敗走し、父は味方の裏切りにあって殺され、2人の兄もそれぞれ命を落とします。頼朝は捕まりましたが、まだ13歳で平清盛の義母の助命があったため死刑を免れ伊豆に流されました。
 
 
伊豆での頼朝は、平家側の地方の豪族のもとで軟禁生活をしていました。
 
 
始めは伊藤氏の監視下にありましたが伊藤祐親の娘と恋仲になって伊藤氏に追われることになり、次に北条氏にかくまわれることになりました。ところが、そこでまた北条時政の娘の政子と恋仲になってしまったのです。
 
 
政子は言い出したら聞かない性格で流罪の身の頼朝と添い遂げると譲らず、親の反対を押し切って結婚しました。どうやら頼朝はかなり容姿がよかったようです。あちらこちらでもてていますね。
 
 
このように恋に現(うつつ)を抜かしていたように見えましたが、頼朝の平清盛に対する復讐心は消えていませんでした。
 
 

源平の合戦に勝利


 
1180年、平家の横暴に我慢ならなくなった後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)が「平氏追討」の令旨(りょうじ)を出しました。
 
 
頼朝はその令旨を受けて、一気にやる気になります。そして、妻・政子の父の北条時政らとともに、平家を討つため挙兵しました。
 
 
すると、頼朝の呼びかけに応じて、平家に不満を募らせていた東国の武士たちがどんどん集まってきました。
 
 
その数は数万人にもふくらみ、奥州藤原氏のもとに身を寄せていた弟の源義経も合流しました。
 
 
その後、頼朝は平家との戦いは義経ら配下の者に任せ、自分は鎌倉で次の国造りについて計画を立てました。
 
 
1185年、ついに「壇ノ浦の戦い」で源氏が平家を滅ぼしました。

 
 

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鎌倉幕府の成立


 
鎌倉時代の成立は、「壇ノ浦の戦い」で源氏が平家を滅ぼし「守護」「地頭」の設置が認められた1185年です。(以前は頼朝が征夷大将軍に任命された1192年とされていました)
 
 
頼朝は朝廷の支配の及ばない武士が統治する国造りを目指していたのですが、源氏の強大化を防ごうとした後白河法皇が分断をたくらみます。
 
 
法皇は頼朝を無視して弟の義経に「官位」を授けたのです。
 
 
頼朝は武家による政権を作ろうとしているのに全くそれを理解せず、朝廷から官位をもらって喜んでしまう弟。
 
 
頼朝は報告をおこたり勝手な戦い方を重ねていた義経に、不満をつのらせていました。この知らせを聞いた頼朝は、激怒しました。
 
 
そして、義経の鎌倉入りを拒絶し、後白河法皇に頼んで義経追討の命令を出してもらったのです。
 
 
さらに彼は、義経の確保を口実にして「守護」「地頭」の設置とその任命権も朝廷に認めてもらいました。「守護」「地頭」設置の真の目的は、幕府の支配力を強めて全国統治をするためです。
 
 
こうして、日本ではじめての武士による政権「鎌倉幕府」が成立したのです。
 
 
そして、頼朝は奥州藤原氏にかくまわれた弟・義経を自害に追い込み、さらに奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼすことにも成功、1192年に征夷大将軍に任命されました。

 
 

源頼朝の死と鎌倉幕府の行く末

 

 
源頼朝が政治の中心を鎌倉(関東)に移したことで物流がガラリと変わりました。
 
 
それまで関西地方に集中していた人、物資、最新の情報が、関東(鎌倉)にも集まるようになり、また武家独自の文化が発展していったのです。
 
 
しかし、関西を中心とした西日本はまだまだ朝廷の支配下にありました。このころは「西は公家、東は武士」の二重政権になっていたのです。
 
 
頼朝は全国統治の強化に尽力していましたが、1199年、半月前の落馬事故がもとで53歳で亡くなりました。
 
 
彼の死因については史料が乏しく異説もあって、謎に包まれています。(本当に事故か?)
 
 
彼の死後、2代将軍になったのは北条政子との間の長男・頼家でしたが、北条氏の策略で1204年に暗殺、次に3代将軍となった次男の実朝もまた1219年に暗殺されました。
 
 
ここで源頼朝の直系の将軍は絶えてしまい、4代目以降の将軍は親王や摂関家といった公家から招くことになりました。
 
 
鎌倉幕府の支配者はこれらの公家将軍ではなく、源頼朝の妻の一族・北条氏でした。彼らが「執権」として、幕府の実権を握り続けたのです。そしてその支配は、1333年に足利尊氏や新田義貞に滅ぼされるまで約140年続きました。

 
 

源頼朝の簡単な年表


・1147年(0歳)
源義朝の第三子として誕生
 
・1159年(12歳)
父の義朝と兄が「平治の乱」で平氏に破れ死亡
 
・1160年(13歳)
伊豆(静岡県)に流刑に
 
・1180年(33歳)
「平氏打倒」のため挙兵
「源平合戦」開始
 
・1184年(37歳)
政所の設置。
 
・1185年(38歳)
「壇ノ浦の合戦」で平氏滅亡
不仲になった弟・義経討伐を命じる
地頭・守護を全国に設置
 
・1189年(42歳)
藤原泰衡が衣川館に住む義経を襲撃し自害へと追いやる
頼朝が奥州藤原氏(泰衡)を滅ぼす
 
・1192年(46歳)
征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く
 
・1199年
死去(53歳)
鎌倉幕府は北条氏13人の合議制に

 
 
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