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こんにちは。
 
前回は、⇒★悲劇の英雄「源義経」についてお伝えしました。
 
 
今回は、その義経を死に追いやったアンチが多そうな兄の「源頼朝」をご紹介します。
 
 
英雄ともてはやされる人より、政治家っぽく人の悪口をたくさん手紙に書き残す人間臭い頼朝のほうがずっと興味深くて楽しいです。
 
 
奥さんも、なかなかすごい女性ですし…。
 
 
ということで、今回は源頼朝についてポイントを簡単にお伝えします。

 
 

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◆源頼朝の簡単な経歴

 

 
・生誕:1147年
・死没:1199年(享年53歳)

 
 
源頼朝は1147年に、源氏の惣領・源義朝の3男として生まれました。母は熱田神宮の神職・藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘です。
 
 
源義朝は、頼朝が子供のころ、平氏との戦い「平治の乱」で敗死しました。そのときまだ未成年だった頼朝は、伊豆に流されてしまったのです。
 
 
その後、1180年に以仁王(もちひとおう)から「平氏討伐」の宣旨が下りました。それをきっかけにして、源頼朝は妻の父・北条時政らとともに関東で同志を集め、平氏打倒のため挙兵したのでした。
 
 
このとき、奥州藤原氏の元にいた弟の頼朝も、富士川近くにいた頼朝に会いに来て、兄弟初の顔合わせています。
 
 
その後、義経は頼朝の元で大活躍し、源氏は連勝を重ね平氏を滅ぼしました。
 
 
頼朝は、平氏との戦いは義経らに任せ、自分は鎌倉で武士中心の政治のしくみを作り始めました。(←こういうところが政治家)
 
 
でも、平氏滅亡後、頼朝と義経の仲は険悪になり、頼朝は義経の鎌倉入りを認めませんでした。
 
 
そして、その後弟を自刃に
追い込んでいったのです。
 
 
義経討伐をきっかけにして確立していったのが、「守護」と「地頭」という鎌倉幕府の統治機関でした。
 
 
簡単にいうと、「守護」は地方の安全を守る役人で、「地頭」は土地を管理して税を集める役人です。
 
 
そして1192年、頼朝は鎌倉幕府をつくり、日本で初めて武士による政権を打ち立てたのでした。
 
 

◆日本で初の「武家政権」というのがすごい!

 

 
源頼朝の日本の歴史に及ぼしたもっとも大きな成果は、初の「武家政権」を築いた事につきます。国家レベルで政治構造を変えるというのは、ものすごいエネルギーがいるものですから。
 
 
源頼朝が鎌倉幕府を作るまで、政治の中心は京の都でした。政権を握っていたのは、天皇を中心とした公家(貴族)をです。(平安時代)
 
 
当時、鎌倉のような関東地方は、田舎のへき地だったのです。
 
 
でも、頼朝が朝廷の力の及ばない遠く離れた関東に政治の中心を移したことで、それから後、公家の干渉をかなり抑えることができ、武士が政治を行う体制の基礎が築かれたのでした。
 
 
もちろん、順風満帆というわけにはいかず、頼朝の死後、息子の3代将軍・源実朝が暗殺されてから、後鳥羽上皇が政権を取り戻そうとした「承久の乱」などが起りますが、妻の実家・執権北条家の力で乗り越えていきました。

 

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◆「武家の政権」は幕末まで約600年続いた!

 

 
源頼朝が政治の中心を鎌倉(関東地方)に移したことで、「人」「物資」「情報」の流れがガラッと変わっていきました。
 
 
それまで関西地方に集中していた「人」「物資」「最新の情報」が、関東(鎌倉)にも集まるようになっていったのです。
 
 
また、鎌倉時代以降、武家の文化が発展していくようになりました。
 
 
鎌倉に幕府を置いたことは、政治だけでなく物流や文化芸術方面にも影響を及ぼし、関東地方の発展のきっかけになったのです。
 
 
のちに徳川家康が江戸(関東平野)に幕府を開くとき、たくさんの文献にあたって鎌倉幕府の政治機関や統治の仕方を研究したといわれます。(家康はかなりの読書家)
 
 
鎌倉幕府は、頼朝の死後、約130年後に滅びました。(直系は3代で滅び、その後は妻の北条家が執権として権力を握った)
 
 
その後にできた足利氏による「室町幕府」は、政権は京都に戻しましたが、鎌倉幕府の仕組みを参考にして、あくまで武士中心の政治を行っっていきました。

 
 

◆源頼朝の死因と子孫

 

 
源頼朝は日本史上初の武家政権を作った人ですが、幕府の基盤が盤石になる前に亡くなっています。
 
 
死因は、謎が多くまだ解明されていません。
 
 
落馬説、暗殺説、病死説(糖尿病・尿崩症)など諸説あります。
 
 
テレビ番組での検証では、落馬説が有力とされています。ただ、もしかしたら、落馬の原因が別のところにあったかも?(間接的な暗殺)などと、いろいろ勘ぐってしまいます。
 
 
そして、彼の死後、将軍家は3代で直系が絶えてしまいました
 
 
特に、息子の3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)は、藤原定家と文通で和歌を教わっていたほどの文系将軍で都とのコネクションも強かったのですが、甥の公暁(くぎょう)に暗殺されてしまいました。
 
 
その後も源氏の親戚たちは血で血を洗う争いをし、後に将軍家は都ゆかりの公家がすえられ、執権として妻・正子の北条家が権力を握るようになっていったのです。
 
 
つまり、源頼朝の直系の血筋は今につながっていません。
 
 
でも、鎌倉時代以降の日本の武士のほとんどの氏(うじ)が「源氏」か「平氏」といわれるので、残っているといわれるとそうなのでした。
 
 
ちなみに織田信長は「平氏」、徳川家康は「源氏」、明智光秀も「源氏」です。

 
 

◆まとめ

 

 
源頼朝は、公家中心の社会から武士中心の社会へと変化した、日本の歴史のキーパーソンの1人です。
 
 
2大勢力だった「源氏」と「平氏」の勢力争いで混乱していた世の中を平定した人でもあります。
 
 
平安時代は、政治や文化の中心は京都(関西地方)でしたが、頼朝が鎌倉に幕府を置いたので、関東地方にも新しい武家風の文化や物資の流通が生まれました。
 
 
日本の政治的な構造そのものが変わるきっかけを作ったという点で、とても後世に影響を与えた人物だったと思います。

 
 

◆源頼朝の簡単な年表


・1147年(0歳)
源義朝の第三子として誕生
 
・1159年(12歳)
父の義朝と兄が「平治の乱」で平氏に破れ死亡
 
・1160年(13歳)
伊豆(静岡県)に流刑に
 
・1180年(33歳)
「平氏打倒」のため挙兵
「源平合戦」開始
 
・1184年(37歳)
政所の設置。
 
・1185年(38歳)
「壇ノ浦の合戦」で平氏滅亡
不仲になった弟・義経討伐を命じる
地頭・守護を全国に設置
 
・1189年(42歳)
藤原泰衡が衣川館に住む義経を襲撃し自害へと追いやる
頼朝が奥州藤原氏(泰衡)を滅ぼす
 
・1192年(46歳)
征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く
 
・1199年
死去(53歳)
鎌倉幕府は北条氏13人の合議制に

 
 
◆弟の義経の一生はこちらに♪
   ↓


 
◆頼朝と義経がそれぞれ持っていた太刀(たち)は、源氏の重宝で双子の刀剣だった!
 
「とうらぶ」コラボで京都が熱くなりそうというお話も……。

     



 
 
 

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