この記事を読むのに必要な時間は約 13 分です。
こんにちは。
今回は、「平家物語」の中でも、すごく切ないエピソード「実盛の最期」をお伝えします。私は、おじいちゃんっ子だったので、おじいちゃんの哀しい話に弱いのです。
「倶利伽羅峠の戦い」の後、源氏と平氏は、篠原(石川県)で再び激突します。
この戦いで、平氏方の老武者・斎藤実盛が、源氏方・木曽義仲軍の武将・手塚太郎光盛に討ち取られ、「あっぱれ」な最期を遂げました。
老武者・斎藤実盛の、潔い武士らしい最期は、木曽義仲だけでなく、今も多くの人に、畏敬の念をもって語り継がれているのです。
義仲の圧勝「篠原の戦い」
【出典元】:https://ja.wikipedia.org/wiki/斎藤実盛
ときは、1183年6月22日、加賀で起こった源平の合戦、「篠原の戦い」です。
「倶利伽羅峠の戦い」で惨敗した平維盛率いる平氏軍は、京に向って北陸道を上っていきましたが、源義仲軍は、すぐに追撃を始めて、加賀篠原の地で平氏軍を捉えました。
敗走中に追撃を受けた平氏軍には、もう戦う気力はありませんでした。我先にと逃げに逃げて、この戦いは義仲軍の圧勝でした。
平家一門では平知度が討ち死にし、大将の平維盛や他の侍大将クラスの幹部たちは、共も連れずに命からがら逃げ去ったといわれます。
そんな敗北が確定している戦の殿(しんがり)をかって出たのが、今回の主人公・斎藤別当実盛だったのです。
敗走する軍の殿(しんがり)を務めることは総崩れになった軍の最後尾の守備を引き受けること、つまり、まず生きては帰れない役目を引き受けることでした。
でも、斎藤実盛がこの戦で殿(しんがり)を務めたのはそのときの気分ではなく、京にいるときからこの地を死地に定めていたのでした。
それは、彼のいでたちから、後になって分かったことです。
謎の平家武者
敗走する平氏を追撃していた、源氏方の武将・手塚太郎光盛は、目立った格好をした奇妙な雰囲気の平家の武者と対峙しました。
ただ1人、その場から逃げずに戦っていた武者でした。
その武者は、名乗れと言っても、けっして名乗りを上げようとしませんでした。当時の一騎打ちとしては、それも奇妙な事です。
武者は赤地の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、黒糸威しの兜(かぶと)という、大将のような豪華ないでたちをしていました。
それなのに1人の部下も連れず、一介の武士のようでもあったのです。
対戦した手塚太郎光盛は、一体どういう人なのだろうと、その武者のことをとても不思議に思いました。
多勢に無勢ということもあり、手塚太郎光盛らは、とうとうその武者を討ち取ります。
そして、木曾義仲の元に首を届けると、義仲は驚いて「ああ、この顔は斎藤実盛だ! でも斎藤はすでに70歳を超えているはず、髪が黒いのはおかしいぞ。彼をよく見知っている樋口を呼べ!」と、幼なじみにして側近の樋口次郎兼光(中原兼遠の子)を呼びました。
樋口次郎兼光は、その首を見て、
「ああ、これは間違いなく斎藤別当です!」と言いました。
兼光が戦の起こる前に斎藤実盛に会ったとき、彼はこう語っていたそうです。
「60を超えて戦の陣に向かうときは、わしは髪の毛を黒く染めて、若く見せようと思う。白髪頭で若殿ばらと先駆けを争うのは大人げないし、老武者だと人の侮りを受けるのも口惜しいからのう。」
それを聞いた義仲は、その武者の首を近くの池で洗わせました。
すると、その武者の髪は真っ白の白髪になったのです。
実は、斎藤実盛は、かつて命を狙われていた幼い(2歳)義仲を木曽にかくまう手助けをした人でした。義仲にとっては命の恩人なのです。
「自分は義仲の命の恩人だ」と名乗れば、討たれることはなかったはずなのです。
斎藤実盛の首を目にした木曽義仲らは、彼の潔さに「あっぱれ」と感嘆し、さめざめ涙を流したのでした。
そうして、畏敬の念を抱いた義仲は、後に実盛の兜(かぶと)を多太神社に奉納したのです。
斎藤実盛の覚悟
実は、斎藤実盛にとってこの戦いは、始めから「死地に選んだ戦い」でした。
このとき斎藤実盛が身につけていた兜(かぶと)は、「保元の乱」の軍功でかつての主君・源義朝から拝領したものでした。その兜は、「八幡大菩薩」の神号が浮かびあがる名品だったのです。
また錦の直垂は、今の主君・平宗盛(清盛の子)から着用を許された金銀の糸で模様が描かれた、豪華な赤絹の織物でした。
実盛は関東武士ですが、生まれはこの越前国南井郷(福井県)だったので、覚悟を決めて最期に故郷に錦を飾りたいと思い、宗盛に着用の許可をもらっていたのでした。
つまり、この兜と直垂は、斎藤実盛の武士としての最期を飾る「死に装束」だったのです。
「むざんやな甲の下のきりぎりす」
「むざんやな 甲の下の きりぎりす」
(訳)意に添わぬ戦いに出なければならなかった実盛がいたわしいなあ。この兜の下のコオロギも、その悲しみを想って鳴いているようだ。(キリギリスは今のコオロギのこと)
この俳句は、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で詠んだものです。
小松(石川県)の多太神社を訪れた芭蕉は、ここで木曽義仲の奉納した斎藤実盛の兜(かぶと)に出会います。
ちなみに、松尾芭蕉は源氏びいきなので、義仲ゆかりの地ということもあり、ここを訪れたのだと思います。
「むざんやな」は謡曲『実盛』の一節「あなむざんやな」を踏まえた言葉です。幼い頃に命を救った木曽義仲と戦うのは、きっと不本意であっただろうと、切なく感じているのが伝わります。
兜を目にして、自分の故郷に死地を決め、若武者に見せるために髪を黒く染めて名乗らなかった斎藤実盛の心情と、恩人の死に涙した義仲の心情に、自らの想いを寄せて、その場で鳴いていた「こおろぎ」に託してこの句を詠んだのでした。
※江戸時代は「コオロギ」のことを「キリギリス」と呼びました。